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長谷川まゆ帆著『お産椅子への旅』(岩波書店、2005年)

2007/8/12 日曜日

産むことと男であること

  女にできて男にできない最たるものといえば、やはり、子を産むことだろう。こればっかりはどれだけ努力しても男にはできない。そのためだろうか、男から見るとお産はわからないことだらけだ。「産みの苦しみ」、「母となる喜び」。いったいどう苦しく、どう喜ばしいというのか。わかる気持ちもするが、本当のところはよくわからない。そもそも母体という言葉はあっても父体という言葉はない。声に出してみても父体という言葉には不自然な響きがある。産むという行為に関して言えば男はひたすらそれを見守るしかなく、「臍の緒」という言葉が象徴する親子の絆だって、とどのつまりは母と子の絆のことではないのか。そう多くの男が考えている、と私は思う。映画やテレビにおいても、現場から一歩退いた所でおろおろするのがお産の瞬間を迎えた男のイメージだ。産むことと男の関係はかくも疎遠なのである。しかし仮にそうだとしても、その疎遠は何に起因するのだろうか。何故それを当たり前のことと人々は受け容れているのだろうか。産むことと男との関係が本質的にそれほど疎遠ならば、病院での分娩に付き沿う男の数が現在増えている事実は何を表すのだろうか。お産をめぐる文化、身体技法には、当たり前のようでいてうまく説明できない謎が多い。

  本書は、そうした謎に満ちたお産の文化と身体技法の歴史に切り込んだ快著である。ルネッサンス期以降長い年月を経て西洋社会に根を下ろしたお産をとりまく社会規範を吟味しながら、著者は、男と女とお産にまつわる歴史的呪縛の一つ一つから読者を解き放つ。狭義には歴史書だが、医学・哲学・人類学の成果をも引照しつつ、新たな知見を次から次へと著者は切り開いていく。掛け値なしにこの本は面白い。他事にかまけてしばらく本書を手に取らなかった己の怠慢をこの夏私は心から悔やんだ。

  そもそも20年余り前、フランス北東部ストラスブール市の博物館で一つの椅子を目にした時から著者の「お産椅子への旅」が始まった。背もたれ約90センチ、座席までの高さ約45センチ、奥行きと横幅がともに50センチ前後で、前方に向かって徐々に幅を広げる座席の中央には鞍型の空隙があいているこの奇妙な椅子に、著者はたちどころに魅入られた。へんてこりんだがどこか可愛らしいこの椅子を、誰が所有し、何を感じ、どう使っていたのか、また、何故今は使われずに民具として博物館に収蔵されているのか。沸き起こる疑問の数々を著者は夢中で解いていく。何かに憑かれたかのようなその情熱は読者を「お産椅子への旅」へとぐいぐい引き込み、書かずにはおられなかったに違いないこの本を一気に読ませてしまう。とは言え、お産椅子を取り巻く知の体系の変遷に迫る著者の行論は周到で、医学とジェンダー、道具と人、男女と親子の関係性をめぐる思索へと読者を着実に導いていく。お産という窓口を通して近代ヨーロッパにおける民衆の生活をのぞき見るその旅路は刺激に満ち、ふだんあまり話題に上らない妊婦の所作の一つ一つに潜む歴史的意味が明らかとなっていく。手で「触れること/触れられること」の哲学的意味を探りつつ、古くは他者の腕や膝に支えられて行われていたお産が堅い無機質な道具に支えられたお産に取って代わられる過程を考察したくだりが、私にはとくに印象深かった。「耳をすます」というのが本書に頻発する言葉の一つだが、文字資料の読解を歴史家の本務と自認する著者自らが家具やら古書の挿し絵やらの非文字資料に「耳をすます」知的勇気が心地よい。不安に駆られつつも「産む力」に身を委ねる産婦の身体に寄り添いたいと願う著者の深い思いがその勇気を支えているのだろう。

  お産椅子とは、持てる者と持たざる者とを差異化する道具であると同時に、「産む性」を尊重しながら、女を「産む存在」へと囲い込む装置であったというのが著者の結論である。では、医者であった男たちは何故そこまでして「産む力」を知の体系に整序することを欲望したのか。その問いが最後に私には残った。男と他者との関係性を回復させる旅をその問いから一つ始められるのかもしれない。