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前川玲子『アメリカ知識人とラディカル・ヴィジョンの崩壊』(京都大学出版会、2003年)

2008/8/5 火曜日

  『パーティザン・レビュー』『マッシズ』といった左翼系雑誌を手に取り、1930年代の言説をいくらかでも追った経験がある者ならば、当時の合衆国において、政治体制の選択が知識人にとってどれだけ重大な問題であったかを理解しているに違いない。しかし、ニューディール以降におけるリベラレリズムの優勢が当然のごとくに語られることが多くなった現在、その状況が生まれるまでの歴史的経緯を問う研究がめっきり減ってしまった。資本主義の行き詰まりを目にした大恐慌下の多くの知識人が、社会主義、共産主義、はては全体主義の可能性までをも含めた「ヴィジョン」の選択を議論していた事実を、我々はいつのまにか忘れ去ろうとしている。しかし、とくに「9.11」以後、歴史の行く末が再び不確実なものとなりつつある現在、30年代の知識人が経た知的漂流のドラマを辿り直すことは我々にとっても意義あることに思える。スターリンのモスクワ、ヒトラーのベルリン、ムッソリーニのローマで、いったい何が起き、何が議論されているのか、緊迫した面もちで30年代合衆国の知識人は語り、そして書いた。前川玲子の『アメリカ知識人とラディカル・ヴィジョンの崩壊』には、大いなる希望とともにその議論に加わり、やがて、大いなる失望とともにその議論から離脱した知識人の知的葛藤が綴られている。

  本書には、マルカム・カウリー、エドモンド・ウィルソン、アーヴィング・ハウ、メアリー・マッカーシー、ライオネル・トリリング、それにF. 0. マシーセンなど、20世紀のアメリカ文学やアメリカ思想を学ぶ者には馴染みの深い者たちが次々と登場する。巨人の名に価する思想家がそこに並んでいるとは必ずしも言えないが、20年代から30年代の社会の激変を文脈に、自己の生きる思想空間を熱く追い求めたこれら知識人の群像を、著者は丁寧に描いている。その筆致には、思想信条に真摯であるが故に人を傷つけ、また人から傷つけられる若者をいたわるような、優しさすら感じる。学生運動への参加と挫折を若き日に味わったという著者故のそれは視点であろうか。誤解の無いように断っておくが、著者の筆致がセンティメンタルだなどとここで批判しているわけではない。そうではなく、誰もが豊かな生活を送る権利を持つと謳った「アメリカの夢」と労働者の幸福を謳った「マルクス主義の夢」とを重ね合わせ、共産主義の未来に合衆国の未来を重ねた30年代“ラディカル”の迷いと挫折を、一人一人の人生に寄り添いながら筆者が綴っていることを高く評価したいだけである。文学と思想の学際研究がここに一つの望ましい成果を得た。教条的批判や断定的評価を避け、一人の人間が己の生き様を模索する「オデュッセイア(海図のない漂流)」(8p)にたとえて30 年代知識人の群像を描こうとした著者の企図は、見事に成功を収めている。

  もっともそうした著者の企図は、本書の不足につながっていると言えるかもしれない。例えば、自己の革新とマルクス主義の未来とを重ね合わせすぎるが故に、スターリンの独裁政治への失望を頑強な反共主義へと「転向」させていった数多くの文学青年たち。その青年たちと合衆国社会の対決を著者は少しロマンチックに描き過ぎているかもしれない。社会主義や共産主義に近づき、挫折しつつも、なおかつ己の叡智を信じ、社会主義や共産主義の未来を思考し続けた者は、文芸家たちの中にも大勢いた。小説家のジョン・スタインベック(120p)、評論家のエドモンド・ウィルソン(148p)、冷戦下の閉塞的知的環境下で自死を選択せざるをえなくなったF. O.マシーセン(208p)などが、その例として本書には描かれている。

  もう少し厳しく言えば、合衆国の内側から立ち上がる「ラディカル・ヴィジョン」の可能性に本書は必ずしも十分な光を当てていないという批判が可能かも知れない。例えば、スターリンに率いられたマルクス主義の失敗が「ラディカル・ヴィジョン」全体の崩壊に繋がるほど、合衆国におけるラディカリズムの根は狭く、細かったのだろうか。労働者の生きた姿を描くことができず、それ故に本当の意味では労働者との共闘ができなかったと著者が示唆する(96p)文学者たちのラディカリズムとは別のラディカリズムが、スペイン内戦に参戦した人々や、最後まで共産党に留まった人々の間にはあったのではないだろうか。また、同じ大恐慌を目の当たりにし、社会主義や共産主義などの外国思想を学びはしても、モスクワが語る教義には一定の距離をおき、合衆国の社会に根差した「ラディカル・ヴィジョン」を探った社会科学者もいたのではなかったか。それらの可能性と限界をどのように評価すべきか。30年代をより広く、深く、理解するには、それらの問題を避けて通るわけにはいかない。

  30年代合衆国の「ラディカル・ヴィジョン」はどこで何故「崩壊」したのか、ロシアで「崩壊」したのか、あるいは合衆国で「自壊」したのか、単にその一つが「放棄」され、別の系譜の「ラディカル・ヴィジョン」が生み出されていったのか。アメリカにおける複数の「ラディカル・ヴィジョン」の可能性を、本書を読了後、読者は考え始めるに違いない。そこから、冷戦リベラリズムが台頭する中、自死を選択したF. O. マシーセンの絶望がいかなる意味で「悲劇」であったのか、新たな考察も始まろう。本書を起点に数多くの問題が浮かび上がってくる。

  文芸史、思想史全般に興味を持つ者のほか、冷戦史、外交史に興味を持つ者にも一読を勧めたいインテレクチュアル・ヒストリーの好著である。