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戦後日本の「審級」として作動した「アメリカ」:吉見俊哉『親米と反米―戦後日本の政治的無意識』(岩波書店、2007年4月)

2009/6/5 金曜日

はじめに
  2001年9月の「9.11」同時多発テロ直後、アメリカ合衆国に多くの国々が同情を寄せた。しかし2003年3月、国際世論の十分な支持を得ぬまま同国がイラク戦争に突入してからは、「反米」の気運が世界にみなぎった。これは多くのアメリカ国民にとっては予想外のことであったらしい。国際関係論や現代史を専門とするアメリカ人研究者の多くが、世界で自国が嫌われる理由を自問し、「反米(anti-americanism)」をテーマとする著作を次々と刊行した。翻訳を含めた「反米」論が日本でも出版の世界を賑わしたことは周知のとおりである。保守派の「侮米」論から知米派の「譴米」論まで、その例は枚挙にいとまがない。ただジャーナリスティックな視点から特定地域における「反米」の現状を分析したものを除くと、その中に読み応えのあるものは必ずしも多くはなかった。歴史的視野と客観的な論証を兼ね備えた学術的著作となると、その数はさらに限られる。吉見俊哉が著した『親米と反米――戦後日本の政治的無意識』はその限られた学術書の一冊である。

  とは言え、「9.11」後に出版された数多の「反米」論と本書は必ずしも目的を同じくするものではない。『親米と反米』と題されたこの著作は、一件「アメリカ論」を展開するかのそぶりをみせながら、実は、戦後日本社会の分析を第一の目的としている。それが読者を惑わす。綴られた逸話の面白さも、本書の主眼を逆に読者に見えにくいものにしているかもしれない。「反米」「親米」の類型的整理が必ずしも鮮明でなく、本書は期待したアメリカ論にはなっていなかったという読後感想を寄せる学生が実際多い。しかしそうした「反米」「親米」のイメージの整理が本書の目的では全くない。序章の内容をまとめる際に再度指摘するが、吉見がここで試みるのは、「政治的無意識」と彼がよぶ戦後の日本における社会思潮の構造的把握であり、その「無意識」的意識の生成に果たした「アメリカ」の役割の検討である。その検討を経て、アジアに対する日本の帝国主義的な眼差しが戦前から戦後に受け継がれたことを吉見は解明し、「アメリカ」がその引き継ぎを可能とする日本の超自我として作動したことに批判的反省を加えていく。おそらくは心理学からの援用であろうと思われるが、「審級」という言葉で吉見はその「アメリカ」の役割を捉える。もちろん、政治軍事の地政学を踏まえたアジアにおける「反米」の視点を本書から学び取ることは十分に可能であろう。興味深い逸話に溢れた戦後日本の裏の文化史として本書を読むこともできる。しかし、それらの誘惑に抗いながら、戦後日本社会の構築に超自我あるいは「審級」として作動した「アメリカ」を捉えることが、吉見が読者に求める本書の正当な読み方に違いない。以下、各章の内容を概括しながら、それを試み、書評者の責を果たすことにする。とは言え、戦後の日本社会に関する社会史的理解が十分でない評者が行った作業は、書評と呼ぶよりは読書ノートの作成に近いものであったことを始めにお断りしておく。なお、以下で括弧内に示される数字は、当該の議論が記された本書の頁数を示す。


序章 戦後日本は親米社会?

  イラク戦争開戦以来の世界各国における「反米」「嫌米」の高まりは、我々の記憶に新しい。イスラーム教徒が国民の過半を占める国々での話ばかりでない。2003年3月の段階でフランスやドイツでは80パーセントを超える国民が「ブッシュの戦争」と呼ばれたこの戦争の正当性に疑義を唱え、カナダ、イギリスなどの「親米」国でもアメリカを「嫌い」と感ずる国民の比率が飛躍的に伸びていたという(8)。しかしそうした中で、なぜか日本だけは「親米」が対米基調であり続けた。そのような揺るぎない日本の「親米」意識が近年形成されたものではなく、戦後半世紀以上をかけて醸成されたものであることに吉見はまず注意を促す(9)。その背景には冷戦下におけるアメリカの対アジア政策が横たわる。例えばアジアにおける経済的および軍事的橋頭保となることを日本と韓国はアメリカからそれぞれ期待された。戦後日本における「親米」の基礎がこの国際政治の文脈の中で培われたことは言うまでもない。そこに吉見は、戦後の日本における国民主体の構築に介入した「超越的な審級」(16)としての「アメリカ」の姿を見出すのである。さらに大きな問題は、少なくとも日本の場合、そうした「アメリカ」の存在が50年代の半ばを境に構造的な変質を遂げたことにあったと吉見はいう。すなわち、各種のメディアを通じて純化されるアメリカのイメージは、消費の欲望をかき立てる明るく心地よいものばかりとなり、それに反比例して米軍基地が象徴する暗く暴力的なイメージが後景に退いたというのである。日本の例を引くまでもなく、戦後世界に占めた「アメリカ」には様々な相貌があった。軍事基地はたしかにその一つであり、ジャズ、ポピュラー・ミュージックが象徴する音やリズムの解放感、生産性向上運動が代表する経済における効率至上主義、住宅や車が象徴する暮らしの豊かさ、そしてコカコーラ、マクドナルドなどが象徴する食の平準化なども、「アメリカ」の相貌の一つであった。そうした様々の相貌が交差し並走する中で日本人の日常意識を内側から再編していく「超越的な審級」としてアメリカが作動したプロセスを吉見は解明していく。その最終的な目的は何か。吉見は言う、「そのねらいを要約するなら、戦時期までの東アジアにおける日本の帝国主義から、戦後におけるアメリカのヘゲモニーへの、大衆的なまなざしのレベルでの構造的な連続性の解明、これである」(17)、と。世評に高いジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店、2000)が敗戦を契機とする日本の「解放」に力点をおいたのに対し、アメリカと日本の大衆が同じ敗戦を契機にいかなる「抱擁」関係、あるいは「共犯」関係を結ぶにいたったかを吉見は明らかにしようと努める。
 
  こうした作業はアメリカの国外で展開するアメリカニゼーションの断面を切り取る作業ともなる。アメリカニゼーションの諸側面を、「内的アメリカニゼーション」「境界的アメリカニゼーション」「外的アメリカニゼーション」の三側面に分類し、世界に存在するアメリカの広がりを評者はかつて考察したことがある(油井大三郎・遠藤泰生編『浸透するアメリカ、拒まれるアメリカ――世界史の中のアメリカニゼーション』(東京大学出版会、2003))。そこではアメリカニゼーションの多義性、重層性を指摘するにとどまったが、吉見はさらに踏み込んで、国内外に存在する複数のアメリカ、「アメリカニゼーション」の諸側面が実は同一のアメリカ、一つの「アメリカ化」の表裏にほかならず、その構造的把握が政治軍事におけるグローバルな動きと我々が生活のなかで経験する意味や欲望の結びつきを理解する鍵になると指摘する(26)。言ってみれば、横須賀の原子力空母と浦安のディズニーランドが深いところで分かち難く結びついていることを、吉見は問題提起しようというのである。対抗イメージとして外在化されたアメリカと生活のモードとして内在化されたアメリカとが戦後日本の自己の構築にどのように加担してきたのか、次章以下で、より具体的な考察が始まる。

第一章 アメリカというモダニティ―「自由の聖地」と「鬼畜米英」―
  第一章において吉見は、幕末明治期以来の日本におけるアメリカのイメージを概括する。亀井俊介や佐伯彰一らの先行研究を参照しながら行われるこの概括は、知識人から大衆までのアメリカ理解をバランスよく配したものとなっている。

太平洋上での捕鯨船との邂逅から始まる漂流民のアメリカ理解、文明開化のモデルとして福沢諭吉らが掲げたアメリカ理解、さらには自由民権運動家らが日本の体制を批判するための鏡としたアメリカ理解などから議論は始まる。ただ周知のごとく、これらの理想化されたアメリカと実地に見聞されたアメリカとの間には大きな隔たりがあった。明治中期以降、渡米経験者の数が急増するにつれその隔たりの違和感はいっそう大きなものとなった。当然、失望を露わにする者の数も増え、「拝米」と「排米」、「親米」と「反米」の二極化が生まれ始める。皮肉なことに、憧れの対象としてアメリカを内在化、内面化すればするほど、そこから逸脱したアメリカの現実に悲憤の声を荒げるのが知識人の常であった。内村鑑三(35)や徳富蘇峰(42)がその最たる例であったという。最初に記した通り、こうした明治期の日本人知識人の対米認識をまとめる吉見の筆致は極めて実に手際がよい。

  ただその記述に問題がないわけではない。例えば、愛憎半ばする日本の知識人のアメリカ理解が互いにどのような内的連関を有するのか、実はまだ十分な研究がなされていないという問題が研究史上存在する。「親米」「反米」「嫌米」「侮米」などの対米認識が特定の個人や集団の中に互いを排除することなく同時に存在する「矛盾」を、研究者は十分に説明できずにいるのである。対米認識と大雑把に呼ばれるものはそれ程に重層的で一貫性を欠く場合が多い。しかし、その多次元性を理解しないと日本人の対米理解の入り組んだ奥行を我々は掌握しきれない。そうした研究の陥穽を本書が十分に補完し得ているとは言えない。例えば、大正期のウィルソン主義の欺瞞を批判する近衛文麿らの対米認識を、「親米」から「反米」への反転の好例として吉見はとりあげている(41-42)。しかし、この「反転」という見方は妥当であろうか。近衛が抱いた「親米」と「反米」における二つの「米」は同一の「米」を指しているのでは必ずしもない。だとすれば、対米認識の反転としてよりは異なる対米認識の併存もしくは衝突の事例としてそれを理解した方が正確ではないだろか。多次元性と上に記した言葉の意味にはこの「衝突」「併存」も含まれる。同じ問題を別の事例で考えてみよう。やはり大正期、ウィルソン主義への支持を抱いたものに吉野作造がいる。その吉野の「親米」は、高邁な理想の担い手としての「米」に向けられていた。一方で、近衛や蘇峰らの「反米」における「米」が、高邁な理想を掲げる「米」の存在そのものを否定していたとも思われない。むしろ、その理想にも関わらず人種差別や帝国主義的な態度を改めないアメリカに近衛や蘇峰は失望し憤慨しているにすぎない。であるならば、高邁な理想には共鳴しつつ、人種差別には非難を続けるという意味で、近衛や蘇峰の対米認識においては「親米」と「反米」が同時に存在していると考えた方が正確な理解なのではないであろうか。その二つが存在して初めて彼らのアメリカ認識は立体的な奥行きを持つ。こうした「親米」と「反米」の共存関係は、世界の各地における「反米」論と「親米」論の附置を把握するうえで重要な論点だけに、その内容と文脈をさらに注意深く我々は読み取る必要がある。「総論賛成―各論反対」といった言いまとめは杜撰の印象を与えてしまうが、しかし、そうしたニュアンスが彼らの対米認識に感じられはしないかと評者は思う。根本的な意味でアメリカの文明原理を否定することと、高邁なアメリカ原理が達成されていないことを批判することとでは、同じ「反米」でもニュアンスの違いがある。そこに注意を促したいのである。

  序章で吉見が注意を促した戦後日本の大衆とアメリカとの「抱擁」「共犯関係」を探るには、知識人のアメリカ論を検討するだけでは不十分であろう。この陥穽を補充する吉見の手腕は、カルチュラルスタディーズの推進者として面目躍如たるものがある。
  手始めに吉見は、大正の都市文化に現われたアメリカン・モダニティの検討を始める。明治期以来、日本の大衆はこのアメリカン・モダニティに欲望をかき立てられ、強い憧れを抱いていたと吉見はいう。浅草六区の大衆オペラやアメリカ流のヴォードヴィルショーの伝統に繋がる大衆演劇がそのモダニティを先取りした例として挙げられている(45)。そうした都市型の娯楽、大衆的アメリカニズムは、ジャズや映画、ビアホールなどの具体的な形をとって大正期の人々の暮らしに根を下ろし始めた。日本における「アメリカ」が変質を遂げるそれが最初の時期であったと吉見はみる。先に挙げた福沢も蘇峰も吉野も、憧れもしくは批判の対象としてアメリカを外在化していたのに対し、大正のモダンボーイ、モダンガールが享受したこれらのアメリカは、すでに「われわれ自身の一部」(46)として日本人の暮らしに内在化し始めていたということになる。そうした「アメリカ」を生活レベルのデモクラシーの事例として称揚する研究はすでに数多く存在する。しかし吉見の炯眼は、東京や大阪に現われたアメリカニズムが、京城、上海、マニラなどのアジア各地にも同時期姿を現し始めていたことを見破り(50)、東アジアとアメリカとの文化関係という大きな枠組みのなかで日米の二国間関係を相対化するところにある。これは従来のアメリカ研究ではまだ弱かった視点であり、非常に重要な指摘と評価し得る。日本の対米経験を個別の体験としてではなく20世紀におけるアメリカ体験の一部として理論化することが今強く求められているが、吉見の指摘は同じ志向を示している。歴史学研究会編『20世紀のアメリカ体験』(青木書店、2001)などと併せ読めば吉見の議論の意味がいっそう深くつかめよう。
  さらにもう一つここで指摘すべきは、谷崎潤一郎の『痴人の愛』に見られるアメリカの存在に関する吉見の考察であろう。自らの性を商品化することで伝統的男性秩序に対抗する視座を獲得してしまう『知人の愛』におけるナオミ。そこに、アメリカに寄託することで日本の伝統社会に対抗するスタンスを確立するジェンダー・ポリティックスの可能性を著者は読み取る。生きることの奔放さを尊ぶアメリカの価値観を素直に受け入れた者として、従来のアメリカ研究者もナオミのような女性の出現を肯定的に指摘することが多かった。例えば前掲の亀井も、明治期の女子体育教育などに現われた身体の解放感などに触れつつ、日本における新しい女性像の生成にアメリカが影響を与えてきた点を幾度となく称揚してきた。しかし吉見の考察はそこに留まらない。そうした大衆文化に浸透した解放のモメントとしてのアメリカが、実は明治以来の日本の近代を支えていたもう一つの軸である、天皇制を頂点とする家父長的社会秩序と相互補完的な存在である恐れを吉見は強調するのである。この論点は、戦前からの日本の帝国主義的な眼差しを戦後補完したのが、アメリカを「審級」とする日本人の政治的無意識であるとする吉見のオリジナルな主張に繋がっていく。だからこそ余計これは重要な論点となるのだが、ただ、筆者の理解力の不足を露呈する恐れを顧みずにいうならば、その議論の展開が本書においてはまだ不十分であると思う。いわく、「この種の「下から」の、ナショナルな自己の外部に向けての個人の欲望を開放していくベクトルを含んだ近代は、たしかに天皇を頂点とする家父長的な近代に一見対抗するようでありながら、実のところ両者は互いに補完的な関係を内包していたのではないだろうか」(59)。例えばこの記述は理解が必ずしも容易でない。近代の日本にとって「アメリカはモダニティそのものであったようにも思われる」(58)と、明治大正の日本におけるアメリカの存在を吉見は言いまとめるのだが、要するに、「モダニティ」という言葉自体があまりに広範のことがらを我々に想起させるため、「モダニティ」という言葉を用いることで吉見が伝えようとする意味がかえって曖昧になってしまっている。戦後の日本をアメリカのヘゲモニーが呪縛できたのは、天皇制とアメリカニズムが戦前から対立していたからではなかったからだ、それらは実は相互補完的であったのだ(60)というのが吉見の直感的判断なのだが、その理論化にはさらに多くの言葉が必要ではないだろうか。ここは従来のアメリカ研究者と吉見の見解が大きく割れる点でもあるだけに、その考察が今後さらに洗練されることを期待する。


第二章 占領軍としての「アメリカ」

  戦後の日本とアメリカとの関わりを「占領」の事実を抜きにして考えることはできない。その占領期にどのような日米関係の礎が築かれたのか、一方的な支配服従の関係が強要されたと憤慨するものから、占領を両者の共同作業とみなすもの、さらにはそれが日本の自主的な選択であったとするものまで、さまざまの論考が存在する。しかし本章で吉見が企図したのは、占領期に造られたアメリカの表象を通し、あるいはまた逆にアメリカの表象の不在を通し、戦前の日本の「ナショナルな主体」が戦後に引き継がれていった経緯を明らかにすることである。

  最初に指摘される興味深い問題は、占領に対する日本人の記憶を象徴する最良の事例とされるマッカーサーの表象が、新聞等のメディアにおいて、占領期厳しく管理され、占領体制の確立とともに逆に後景に退いていった問題である。1945年9月に撮られたマッカーサーと天皇の有名な会見写真の分析から議論は始まる。新たに日本の実質的支配者となったマッカーサーが居丈高に天皇を見下ろす姿を捉えたものとしてこの写真はひろく記憶されているが、写真撮影時に真に緊張していたのはむしろマッカーサーであり、天皇は写真に撮られ慣れていない居心地の悪さを示しているだけではなかったかと吉見は従来の解釈に疑問を投げかける。では何故この写真のマッカーサーは緊張しているのか。それは、日本国民に占領軍の存在を自覚させてはいけないと彼が過剰に意識していたからだと吉見は考える。むしろ天皇を引き立てることにマッカーサーは腐心していたと吉見は推測する(69-76)。実際、主要新聞の調査を通して吉見が明らかにしているとおり、日本のメディアにマッカーサーがその姿をさらす頻度は占領が進むにつれて減少し、そのイメージの希薄化に反比例して人間天皇のイメージが前面に押し出されているという(79-86)。明治の始め以来天皇に寄託することでしか自己のナショナルな主体を表現してこなかった日本人は、終戦後においても、占領軍の総司令官たるマッカーサーと、その代理を務め始めた人間天皇に寄託する形でしか新たなナショナルな主体を立ち上げられなかったのではないか(90)。マッカーサーと天皇の経験写真に読み取るべきは、そうした問題であると吉見は結論する。これらの問題の背後に吉見が見据えるのは、何かしらの権威に寄り添わねば自己のナショナルな主体を表現できない日本の大衆の精神構造であろう。戦後の日本にとってアメリカは「超越的な審級」だったと吉見は繰り返し本書で指摘している。そのことは既に述べた。人間天皇の表象は占領軍が持つその「審級」のイメージのネガに過ぎないとする吉見は解釈しているのである、たしかにその議論は刺激的であり、その視点を援用すれば、他にも興味深い問題が幾つも浮上する。例えば、小津安次郎の映画を支えた俳優の一人に笠智衆がいる。彼が演じた「父親」は人間天皇のイメージと映像的に重なり合う部分が多いと評者は考えている。フロックコートと山高帽の笠智衆が白黒の画面を横切るイメージを思い出していただければ、言わんとすることが伝わるだろうか。この推論が正しいとすると、笠智衆演じるところの戦後日本の「父親」は、アメリカの代理的「審級」を映像メディアで演じていたという仮説が生まれる。それはまた、占領期における「アメリカ」の存在が小津という映像作家にどこまで内面化されていたかといった興味深い議論を呼び起こす。「まなざしの構造としては、旧体制からの根深い連続性を残」し(91)「戦前との断絶よりも連続性が際立つ」(93)と吉見が言う戦後日本の「政治的無意識」が、映像文化の領域にまで浸透していたと考えるこの仮説は、日米文化干渉論の論題としてもきわめて魅力的ではないであろうか。

  もちろんそうした「審級」としてのアメリカとは異なる、より具体的な存在としてのアメリカの表象も終戦後の日本社会には氾濫した。そのうち吉見がもっとも注目するのは、「パンパン」のイメージ、占領軍の支配を肉体的な次元で実感させる女性の身体表象である。戦後日本で大量に発生した米軍相手の街娼問題やその契機としての特殊慰安施設協会(RAA)の開設については、吉見も指摘する通り、既に数多くの研究がある。例えばジェンダーの権力関係を占領がパラレルに内包することを指摘した有賀夏紀ほかの研究を思い出せばよい。しかし吉見が本章で注目するのは、物質第一主義と消費至上主義が象徴するアメリカニズムの体現者たるパンパンあるいは街娼が、戦前の日本における男性中心の秩序をあっさりと転覆させた逆転の構図であり、その構図をさらに再逆転させる戦後の主体は誰であったかという問題である。「アメリカ」への消費的欲望を体現し、一般男性には手の届かない豊かな生活物資を獲得する者として、娼婦、パンパンは占領のある時期たしかに羽振りを利かせた。けれども、占領体制の終結とともに、占領軍に暴力的に汚された悲劇的女という特殊な意味を彼女たちは付与されるようになり、それを慨嘆することでナショナルな主体を回復する男性社会の周縁的存在へと押しやられていった。そこに、「アメリカ」を媒介とするもう一つの戦後主体の構築を吉見は読み取る。男性編集者の意図的編集が際立つという『日本の貞操』(1953)の読解に、ナショナルな主体の構築とジェンダー・ポリティクスを交錯させるこれらの議論(107-112)は、大衆文化の細部に「親米」「反米」の波動を見極める吉見の卓越した力量を伝え、スリリングですらある。アメリカをめぐる表象が一つの時代のなかで複雑かつ重層的に絡み合っていたことをここでも吉見は見事に描き出している。

第三章 米軍基地と湘南ボーイ
  社会に刻まれた「アメリカ」の残像を切り口に戦前の日本と戦後の日本との連続性を明らかにしようとする意図が本章にはある。それが最も鮮明に表れているのが第三章ではないだろうか。従来のアメリカ研究などでは十分に掘り下げられることがなかった、アメリカの軍事基地の戦後日本における軌跡を追うことで吉見はそれを行っている。より具体的には、東京周辺の都市景観や若者の風俗などの変貌を基地文化の所産として取り上げ、分析していく。

  今現在も日本には100を超える米軍施設が存在し、約5万人におよぶ兵が駐留しているという(117)。その記述に我々が驚くとすれば、第一の理由は、その規模に見合った存在感を米軍が醸し出していないことにあろう。しかし米軍のその不在感こそが問題だと吉見は考える。戦後日本における米軍基地の問題の根底には、戦前の日本軍のプレゼンスを受け継ぐ形で増強を重ねた米軍が、ある時期を境にその存在を背景化させつつ、他方では日本人の欲望をかきたてる消費文化を撒き散らした皮肉がある。姿を見せない「アメリカ」として基地はたしかに日本人の生活の隅々にその残像を刻印している。そう吉見は考えている。なるほど、占領期における銀座界隈の米軍施設をめぐる逸話や、原宿や六本木がアメリカ風の街並みを整えた経緯、横須賀や沖縄のコザに芽生えた日本のジャズやロックの盛衰の歴史などを詳述しながら、米軍基地の存在が日本の都市景観、大衆芸能にどれだけ大きな影を落としているかを吉見は説得力をもって語っていく。原宿や六本木のモダンが米兵相手の商売に始まるものであり、さらに遡れば、代々木の練兵場や麻布界隈に存在した憲兵隊本部、近衛歩兵連隊の存在につながることなど、本書を読むまで評者もその細部までは知らずにいた(127)。それらの逸話だけでも興味深いものであるのだが、例えばその話が現在の湘南カルチャー全般の淵源にまでおよび、茅ヶ崎や藤沢周辺が米軍演習のビーチであった事実まで知らされると、若い読者などしばし唖然とせざるを得ない。石原裕次郎からサザン・オールスターズのカッコ良さの源もそうした基地文化に行きつくことを示唆されれば、暴力としての米軍の基地文化が消費の対象に捩じれ返った戦後日本の文化景観にある種のおぞましさすら覚え始める。実際学生と本書を読む際に、多くの者が一定の不快感を露わにするのがこの章の記述であり、意識せずに親しみ馴染んできた東京周辺のアメリカンな景観の多くが、その起源の大部分を基地文化に持つという事実にほとんどの学生が不安を示す。学生の知識の不足ゆえのその驚きを、吉見はむしろ期待しているのであろうか。反基地運動の対象となりうる「暴力」としての基地文化と横須賀や福生などで「欲望」の対象へと商品化された基地文化が、同一のアメリカの表裏であること、そして、50年代を境にその二つの分離が静かに進み、やがては前者、すなわち「暴力」の主体としての基地の記憶が希薄化していく歴史を、たんたんと、けれども執拗に吉見は綴っていく。村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1976)などの小説によってひろく知られ、これは吉見もまだ指摘していないが、近年では山田詠美『風味絶佳』(2005)などにその深化したイメージが描かれる米軍の基地文化に長いこと我々は晒されてきた。その影響下で我々の生活空間が静かな変遷を余儀なくされた事実に改めて目を見開かされる。それを促す本章の記述を率直に評価したい。またそれと同時に、村上や山田が作品に描く、深層に沈んだ「アメリカと日本の混住」(158)のイメージに、生理的嫌悪を示す学生が実は少なくないことも付言しておきたい。それほどに、我々の文化の深層にアメリカは根を下ろしており、それを突かれることへの不安や反発が若者の中にある。その事実を深刻に私は捉えたい。我々の暮らしに降り積もった戦後日本のアメリカニゼーションの断片を一つ一つ掘り起こし、明らかにする気持がなければ、日米関係の拠って立つ足元を確認することは決してできsないからである。そうした意味で、本章での吉見の目論見には全面的な支持を表明したい。

第4章 マイホームとしての「アメリカ」
  戦後日本のアメリカニゼーションの広がりと奥行きを測るのに、大衆の間に浸透したアメリカンホームのイメージに着目する研究は多い。1949年から51年にかけて朝日新聞に掲載された4コマ漫画『ブロンディ』の内容を分析した論考などその最たる例であろう。滝田佳子や岩本茂樹の研究をここでは思い出せばよい。マイホームとしての「アメリカ」に付与された意味と機能に吉見も強い関心を寄せ、50年代、60年代におけるその系譜を本章で細かくたどっていく。しかしアメリカンホームのイメージの伝播などに議論の主眼はない。吉見の議論の焦点は、アメリカのまなざしの中で「家庭」という新たなナショナルな空間を立ち上げた戦後日本の精神構造にある。その意味で、憧れや豊かさの象徴としてのアメリカを強調する多くの戦後日米文化論と吉見の議論は必ずしも同じ方向を向いていない。しかし、そこには十分な説得力がある。

  そもそも占領期の日本で人々が「アメリカ」を最も具体的に経験したのが、アメリカンホームであり、住宅であった。吉見の議論はそこから始まる。現在の代々木公園にかつて存在した広大なワシントンハイツや三宅坂のパレスハイツ、練馬区成増にあったグラントハイツなど、豊かさの見本とも言うべき米軍関係者の住宅は東京のあちこちに存在した。今は歴史小説家として名を成す山本一力の作品に『ワシントンハイツの施風』(2003)といったある種の青春風俗小説があり、そこにアメリカ人家族の豊かな生活ぶりが活写されていることなど、ここで想起してもよい。この米軍関係の住宅需要を満たすために日本の住宅産業は戦後新たな技術を学び、日本の資材を用いたアメリカン・ウェイ・オブ・ライフの創出に力を注いだという(165)。日本における「アメリカ」のローカリゼーションの一例ということになろうか。その逸話自体がまず十分に興味深い。しかしもちろん、日本人の間に家庭が体現するアメリカン・ウェイ・オブ・ライフのイメージを刷り込む最大の力となったのは、新聞に掲載された先に触れた『ブロンディ』であり、アメリカ製のホーム・ドラマの数々であった。戦後日本社会が追い求めるべきモデルとしての「アメリカ」を最も具体的に表象したのがそれらに描かれたアメリカンホームの数々であり、そのアメリカンホームの獲得に50年代、60年代の日本人は邁進したのである。ただし、ここまでの議論は旧聞に属すといってもよい。吉見の議論の独自性はむしろそこから先にある。すなわち、アメリカのまなざしの中で自己の主体を再構成する戦後日本人の姿がここに再び立ち上がると吉見は考えるのである。なるほど、家庭の電化こそが生活の民主化を推し進める最良の手段であり、その担い手たる主婦こそが新たな国民として主体化される存在であったという吉見の分析は、とくに面白い(193)。アメリカンホームの夢を受け入れることが日本の生活の民主化に繋がると多くの人々が当時論じた。しかしそれは、アメリカに寄託する形で自己を構築して見せる、ある視点からみればきわめて植民地主義的な受け身の行為であり、言い換えれば、占領期におけるマッカーサーと天皇との共犯関係が、豊かな生活の探求という形をとって60年代の日本に沁み渡ったことを意味するにすぎないと、吉見は分析するのである。この結論に至る吉見の考察はたしかに新しい(206)。ただ若干の不安も覚える。政治の領域における日米の「抱擁」と生活文化における日米の「抱擁」を文字通り抱き合わせて結論を導くその議論の飛び方が気になるといえば、気になるのである。あらためて指摘するまでもなく、アメリカニゼーションという言葉で語られる事象には様々の側面がある。そこには例えば、政治の民主化の側面もあれば、生活の科学技術化の側面もある。そのため、アメリカニゼーションを十分に細分化して捉えずに称賛あるいは非難すると、そこに含まれる次元の異なる社会の変容を、すべて一緒に称賛あるいは非難することになる。もう少しはっきり述べよう。戦後日本の家庭電化の試みが、吉見が指摘する意味での「アメリカニゼーション」の試みであったときっぱり言い切る自信が評者にはないのである。それが「アメリカンホーム」という表象を伴って推進されたことは事実であろう。吉見が引く多くの宣伝文句がそれを証明している。しかし、その「アメリカンホーム」の「アメリカ」が占領期以来の例えばマッカーサーが表象した「アメリカ」と同義の「アメリカ」であるのか否か、評者にはまだ分からない。生活の利便を象徴するもう少し普遍的な意味での「アメリカ」が「アメリカンホーム」の「アメリカ」であったという議論は成立しないのであろうか。マッカーサーの「アメリカ」とアメリカンホームの「アメリカ」を同一に捉えることの功罪は何にあるだろうか。これらの問いには今しばらく留保を付けたいと評者は思う。グローバルな政治軍事の地政学と人々の暮らしを上部構造と下部構造のような構図に分けて理解しないことが本書の狙いだと吉見は強調するだけに(26)、その議論に首肯したい気持ちもある。しかし、「親米」「反米」「嫌米」「恨米」と、世界で語られる「米」の存在はあまりに多層的、多義的であり、それらは同一の個人や集団内内に矛盾しつつも否定し合うことなく併存する。その可能性をこの書評では多次元性という言葉を用いて既に述べた。同じ問題をここでも指摘しておきたい。

終章 「親米」の越え方―戦後ナショナリズムの無意識―
 幕末明治期の日本の知識人にとってアメリカは理想のモデルとして存在した。その意味で当時のアメリカは日本にとっての「外なる」アメリカと言えた。しかし、大正昭和に入るにつれ、理念上の憧れとしてばかりでなく、暮らしに快楽をもたらす具体的な存在としてアメリカが現れ始めた。それはもはや「内なる」アメリカとも呼ぶべきものであった。そうした「内なる」アメリカがより深く、強く、日本人の間に根を下ろすのは、戦後の占領以降のことになる。本書の議論の大半は、その戦後の日本における「内なる」アメリカの成長の時代を幾つかの局面に分けてたどるものであった。例えば、マッカーサーを中心とする占領軍が隠蔽したアメリカの眼差しに寄託する形で戦後日本の新たな国民が自己を表現し始めたこと(2章)、戦後の東京の都市景観や原宿、六本木、湘南などに生まれた大衆文化が実は米軍基地の影響を強く受けており、占領の終了とともに基地の暴力性が後景に退くことで現代に受け継がれるファッションとして若者の間に定着したこと(3章)、アメリカ的マイホームを豊かで民主的な生活の理想ととらえた結果、アメリカの眼差しによって縁取られた生活空間の中で戦後の日本の家庭が形成されることになったこと(4章)、等々が「内なる」アメリカの具体例として各章に綴られている。しかし終章で綴られるのは、「平和」と「繁栄」の獲得とともに進んだその「内なる」アメリカとの共存、「共犯」関係は、戦前におけるアジア諸国への帝国的態度を温存して初めて可能となったものであり、その結果醸成された戦後日本の「親米」を越えることこそが日本の取るべき道ではないという、吉見の大きな問いかけである。

 もちろんアメリカと戦後日本との「抱擁」関係を問い直す「反米」が、50年代、60年代の日本に現われなかったわけではない。冷戦下の国際政治の力学の中で展開された共産党を中心とした「反米」がその一つであり、もっと直接的には、基地の存在に抵抗する農民らの大衆運動を伴った「反米」もその一つであった。それらの「反米」には、民族ナショナリズムの色合いが共通して存在した。日本の国土がアメリカの植民地主義によって「犯されている」といったメタファーがその具体的な主張である(214)。しかし、朝鮮戦争が生み出す戦時特需で経済が潤い、60年代安保闘争が終息していくなか、いずれの「反米」も広く国民の支持を取り付ける力を失っていった。その中で、アメリカとの共犯関係により日本が獲得したアジアにおける地位を、同じアジアに対する加害者責任を自覚することで乗り越える可能性を示したのは、65年に結成されたべ平連の「インタナショナリズム」ではなかったかと吉見は評価する(221)。鶴見俊輔、良行らがとらえたべ平連に象徴される「反米」が、戦前以来の日本のアジアに対する帝国的態度の払拭を可能とし、戦後日本の無意識に根を下ろした「親米」を越える一つの有用な道筋を示すと吉見は考えるのである。最後に、「基地」の暴力を伴って日本に沁みわたった「アメリカ」が支えるグローバルな帝国秩序から日本が脱却する必要を強調し、吉見は議論を結ぶ(235)。我々の存在を透明な膜のように包むアメリカの存在を感じ取っている者は多かろう。その膜を破る知的勇気を持つことへの呼びかけと本章を読んだ。その呼びかけそのものへの疑問はない。ただ、ナショナルな主体の構築をアメリカ抜きに行った場合の可能性とリスクについて評者はもう少し学びたいと考える。あらためて指摘するまでもなく、国際政治における日本の自律と対米自律とは同義ではないからである。

終わりに
  書評の結びに私見を短く述べておきたい。世界各国で展開される「反米」「親米」の議論を分析することの意味は複数ある。アメリカの特定の政策や個別の政治家に対する一過性の「反米」や「親米」を追うとすれば、それは国際政治の現状分析であり近未来の外交指針の模索といった意味合いを強めよう。一方、ある程度の年月にわたる対米認識を定式化しようと試みれば、それはむしろ「反米主義」「親米主義」の研究といった性格を帯びてくる。例えば近藤健『反米主義』(2008)とともに、吉見の議論はこの系譜に入れることができる。そして他の「反米主義」「親米主義」の研究が行ったのと同様、多層的、重層的に存在するアメリカ理解を群像として描き、アメリカが日本のアイデンティティの形成にどのような役割を果たしたのか明らかにすることに吉見は成功している。彼が導きだした結論は、戦後の日本においては、ナショナルな主体が再構築させる際の鏡もしくは審級としてアメリカが作動したということであった。しかしそれ故に、アジアに対する帝国的な眼差しが戦前から戦後へと日本に温存されることにもなった。さらに、審級としてのアメリカがその姿を後退させるにともない、その眼差しに潜む暴力性に日本人は無自覚になった。そのことへの批判的反省が本書を貫く。

  吉見の豊かな記述に身を任せ、時にその分析に共感し、時に留保をつけながら、小文を綴ってきた。ただ既に再三述べたように、そもそも「反米」「親米」は必ずしも一貫した体系を備えた思想などではなく、一人の人間、一つの集団のなかに、同時並行的に存在する矛盾に満ちた情念にも近いものだと評者は考えている。そうした情緒的な反応をとりわけアメリカ合衆国が世界中の人々に呼び起こすことこそが問題なのである。同国の世界大の存在を理解するには、その理由を問わないわけにはいかない。この問題自体はおそらくはアメリカ研究者を自認する者たちが立ち向かうべき問題であり、吉見が一人で解決しなければならない問題などでは決してない。戦後の日本においてもナショナルな主体を立ち上げる媒介として「アメリカ」が機能した事実を炙り出した時点で、本書の価値は既に十分定まっている。吉見がまだ議論していない「親米」「反米」はもちろん存在する。例えば、空気のように存在する無自覚な「親米」とは異なる確信的「親米」も、50年代、60年代の日本では強い力を持っていたろう。冷戦の只中であっただけに、その存在は小さくなかったはずである。科学技術や生命倫理の領域において世界を先導するアメリカを人類の先鋭として支持する「親米」も日本には根強い。逆に絶対平和主義からの「反米」やフェミニズムの視点からの「反米」が日本には存在する。明治期以来の日本の知識人にとってそうであったように、アメリカ合衆国が放つ訴求力は存在と当為の二つの側面から、いまだに日本人を誘惑し、反発させるのである。「親米」「反米」はその合衆国の訴求力をめぐる無限の語りと言えよう。早急な判断を下すことなく、それに粘り強く耳を傾けることが人類史における「アメリカ」の広がりを把握することに繋がる。「親米」「反米」研究の成熟はそうした作業の後にしかもたらされ得ない。少なくともその一つの道筋を日本とアジアに関し示唆した小さな大作として、あらためて吉見の著書を評価したい。

  それにしても、戦後の日本に対しアメリカが果たしたと吉見が指摘する「超越的な審級」の役割は、他国においても見出すことができるのであろうか。ドイツ、フランス、韓国、イスラーム諸国などを含めた、世界における「反米」「親米」の比較研究が待たれる。また、戦後の日本が内に抱えた「審級」は果たしてアメリカだけであったのであろうか。ロシアや中国の役割はどうであったろう。対米認識はそれら諸外国への眼差しと無関係に自律して生まれ得るものではない。これらの諸問題を踏まえつつ「親米」「反米」の考察をさらに深めたい。