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「信教の自由の視点から見るアメリカ――書評:森本あんり著『アメリカ的理念の身体-寛容と良心・政教分離・信教の自由をめぐる歴史的実験の軌跡』(創文社、2012)

2013/11/26 火曜日

「信教の自由」の理解を求めて

  合衆国の国民であるか否かを問わず、アメリカ合衆国を自由の国と語る者は多い。明治以来の近代日本におけるアメリカ理解は、この「自由の国アメリカ」というイメージを軸に展開してきたと言いまとめる研究者すらいる。 しかし自由という言葉は難しい。その言葉の指し示す範囲があまりにひろく、漠然としていて、言葉の意味を厳密に理解しながら用いるのが容易ではない。例えば、「何々の自由」あるいは「何々からの自由」もしくは「何々をする自由」といった言い方でその範囲を限定しなければ、自由の内容を具体的に思い浮かべることが我々にはできない。日本語における自由という言葉を英語に置き換えるのに、freedomとlibertyの二つのうちどちらを用いるべきか咄嗟には判断が付けにくいのも、同じ理由によろう。 逆に、理念の中で無定形にひろがる自由を想起するあまり、合衆国社会での自由への制約や限界を実際に目にした時、「自由の国アメリカ」のイメージが裏切られたと慨嘆する者や「二重基準の国アメリカ」を糾弾し始める者が多く出るのも、やむを得ないことかもしれない。自由を理解することの難しさは、アメリカ社会を理解することの難しさに直結している。

  それでも、投票の自由や企業の自由などの目に見える活動の自由に関しては、その輪郭を我々はかなり正確に掴むことができる。けれども「信教の自由」という言い方に表現される心の内面の自由に話が及ぶと、我々の理解はとたんに覚束なくなる。その原因の一つは、信条、信仰の自由など、その存在が理念の中でしか本来把握し得ない自由が具体化され制度化される歴史的経緯を、我々が十分に学んでいないことにあろう。可視化された自由は理解しやすいが、そうでない自由はなかなかその内容が理解し難いということになる。「信教の自由」に発現される自由に付随する思想や哲学の問題も我々はあまり深く理解していない。「信教の自由」を規定した条文としてひろく知られる連邦憲法修正第一条には、結社信仰の自由を規定した文言のほかに、国教分離を規定した文言がある。なぜこの二つの項目が同じ条項に含まれているのか返答に窮するのは、「信教の自由」における自由が抱える思想的哲学的諸問題を我々が十分に学んでいないことの良き証しなのである。

  そうした問題が存在するなか、本稿でとりあげる森本あんりの著書は、宗教と政治と思想と哲学が交錯するアメリカの自由に関する諸問題を、主に18世紀ニューイングランドの歴史に遡り考察したものである。森本自身の専門はあくまでキリスト教神学であり、『ジョナサン・エドワーズ研究―アメリカ・ピューリタニズムの存在論と救済論』(1994)や『アジア神学講義―グローバル化するコンテクストの神学』(2004)他の専門著書が既にある。その一方で『アメリカ・キリスト教史―理念によって建てられた国の軌跡』(2006)のようなより一般向けのアメリカ研究書も森本は著している。その両方を書き分けるのが森本の魅力であろう。ただ本書は、アメリカ研究者一般に語りかけるという目的を合わせ掲げながらも、究極的には、信教の自由を素材にキリスト教の政治哲学的要請に応えること、わけても自由の両義性を踏まえた理念形成の公論を醸成する大切さを説くことを目的にしている。その内容を章ごとに詳細に辿るのは本書評の責を越える作業であろう。以下に本書の章立てを紹介し概要の紹介に換える。その後に、主にアメリカ研究の視野をから本書の意義に考察を加えていくことにする。

序章
第一部 寛容論と良心論―歴史的文脈と今日的射程(14-82)
一章 中世的寛容論から見た初期アメリカ社会の政治と宗教
二章 「誤れる良心」と「愚行権」―中世から近世への神学的系譜
三章 「誤れる良心」と「偽れる良心」をどう扱うべきか―現代寛容論への問いかけ
四章 人はなぜ平等なのか―平等の根拠としての「良心の自由」
第二部 政教分離論―発展期の錯綜と現代の憲法精神(84-169)
 五章 初期アメリカ社会における政教分離論の変容と成熟
 六章 ロジャー・ウィリアムズの孤独―規制原理としての分離主義と構成原理としての許容論
 七章 さまよえる闘士―ロジャー・ウィリアムズ評価の変遷と今日の政教分離論
 八章 教会職と政治職―兼任の禁止と解禁の論理
第三部 信教の自由論―プロテスタント的な自由競争原理の(172-258)
 九章 プロテスタント的な大学理念の創設―初期ハーヴァードのリベラルアーツと神学教育
 十章 ジョナサン・エドワーズと「大覚醒」の研究史 
 十一章 反知性主義の伝統と大衆リヴァイヴァリズム―Harvardism, Yalism, Princetonismをぶっとばせ
 十二章 キリスト教の女性化と二〇世紀的反動としての男性化
結章(259-273)

  1.日本における「周回遅れ」のアメリカ宗教理解
 日本のアメリカ研究において、宗教に関する研究が日米の格差が際だつ分野の一つであることは誰しもが認めよう。その格差を埋め「本邦で手薄なアメリカ理解の次元を深化させる」のが森本の掲げる本書の目的の一つである。しかし本書のより大きな目的は、「アメリカ型の政教分離やリベラリズム」で「試みられた多様な価値観の平和的共存の道を尋ねる」(5、以下本書への註は該当の頁数を本文中に直接記していく)ことにあると森本は述べる。それが、多様で異質な価値が鬩ぎ合い混在する現代社会を理解する視座を磨くことに繋がる(31、86、146、168)と同時に、アメリカの影響を色濃く受けてきた日本社会の思想風景を見直すことにも繋がる(5)と森本は考えるからである。森本のこの考えは示唆に富む。何故なら、その考えは、他の多くのアメリカ研究者と森本とを隔てるアメリカの宗教に関する知識の量的相違ばかりでなく、アメリカ研究に何を求めるかというアメリカ研究者全般と森本との関心の違い、知識の質的相違を合わせて示すと思われるからである。

   改めて言うまでもなく、日本のアメリカ研究における宗教への理解はきわめて薄い。自らの経験に照らしても、アメリカの宗教ないし宗教史を学ぶには、指導にあたる研究者、教育者の絶対的不足が大きな壁として存在している。宗教史への理解を独自に取得しようと志したものの、例えば、シドニー・アールシュトロム(Sydney E. Ahlstrom)の浩瀚な通史を手にとって学ばなければならない知識の量に圧倒され呆然とたたずんだ経験を持つ研究者は少なくないのでないか。アールシュトロムの指導学生であったジョージ・マズデン(Richard G. Marsden)の著作になれば少なくとも学ぶ者の気持ちを萎縮させる圧迫感は薄らぐが、そのマズデンの講座をノートルダム大学で引き継いだマーク・ノル(Mark A. Noll)の著作を含め、この分野における主要な著作の質量両面での充実は日本の研究者の志をいまだに挫きがちである。

  日本のアメリカ研究における宗教への理解は、むしろピューリタニズム研究にその任が託されてきたとみる方が正確かもしれない。ニューイングランド中心主義を批判され、古きアメリカ研究の一端としてしか評価されなくなってきたニューイングランド研究の多くにおいて、マサチューセッツ植民地やコネティカット植民地でのピューリタンの経験にアメリカ的自我の淵源をアメリカの研究者が探ってきたことは間違いない。その知見を日本の研究者も誠実に学んできた。ペリー・ミラー(Perry Miller)の里程標的な研究は言うまでもなく、独立革命の萌芽を18世紀信仰復興運動に探るアラン・ハイマート(Alan Heimert)や、聖なる生活と世俗の成功との間に生じる緊張もしくは神への絶対的帰依と自我の萌芽との緊張の中にアメリカ的人格の原型を探ったサクヴァン・バーコヴィッチ(Sacvan Bercovitch)らの著作を読めば、その性格は自ずと明らかとなろう。アメリカ社会を貫く個人主義やその統合原理を抽出しようとする性格が彼らの研究には強い。逆に、森本が示すような、異質な価値観を包摂する多元的社会原理の編成をピューリタンの経験に探ろうとする学術的関心は彼らには薄い。 そうした性格をピューリタン研究に持たせたのは、むしろミラーに学んだエドモンド・モーガン(Edmund S. Morgan)やそのモーガンに学んだデイヴィッド・ホール(David D. Hall)らであった。モーガンやホールの著作には、聖書の教えに忠実たらんと努める禁欲的なピューリタンの姿ばかりでなく、愛や性の問題に好奇心を抱き、悩み、また、ヨーロッパから継承した迷信や魔術のたぐいと厳格な聖書解釈を両立させるのに腐心した人間味あるピューリタンの姿が描かれている。受動的に教義を信じるばかりでなく能動的に教義の意味合いを考えるように変貌したピューリタンの姿とそれは言い換えることもできる。 「特定の社会規範が支配的力を持つという言い方は、ニューイングランドのタウンや教会の間に見られた多元的原理の共存状況を形容するのに相応しくない」というホールの言葉には 、その意味で、国民国家の凝集性により強い関心を寄せた旧来のアメリカ研究の頸木を脱した新たなピューリタン研究の学術的関心がうかがえ心地よい。だが、日本のアメリカ研究におけるピューリタニズムの理解はともすれば旧来のアメリカ研究の関心に沿いがちで、ピューリタンをごく普通の人間として理解しその経験を分析の俎上に乗せようとする姿勢が強いとはいまだいえない。異なる価値秩序が交錯するグローバル化した世界を理解する視座を彼らの歴史に学ぶ姿勢も弱い。その意味で従来の日本のピューリタン研究とは性格を異にする森本の学術的関心は、現代的でアクチュアルなものと評価できる。アメリカにおける研究の成果を「周回遅れ」で確認しているのが現状(5)と率直な懸念を森本は本書序章で表明している。その日本のアメリカ研究を先導する役割を本書は担わされているのである。

  アメリカ研究から見た本書の学術的な性格とその意義を以上に確認したうえで、本論の考察に移りたい。

  2.事象的理解から構造的理解へ
 日本のアメリカ研究を深化させると同時に多様な価値観の平和的共存の道を探るという二つの目的を果たすのに森本が踏んだ第一のステップは、ヨーロッパ中世からニューイングランドに継承された寛容論と良心論の系譜を辿ることであった。本書第一部に納められた第一章から第四章までの各論がその作業を担う。寛容と良心の問題は日本のピューリタン研究で従来強調されることがなかった。しかし、その問題への深い理解は、我々のピューリズム理解を事象的理解から構造的理解へと確実に深化させる。

   17世紀入植当初、非国教徒として英国で迫害を受けたピューリタンは、同じ非国教徒であったバプティストやクェーカーに排斥的な態度をとった。二重規範とも見えるこの態度に不誠実という評価を現代の視点から我々は与えがちである。しかしそうした評価を、あらゆるものを平等に認める態度と寛容とを同義に捉える理解の混乱が生みだす評価と森本は断じ、以下のように議論を展開する。そもそも中世における「寛容」とは、悪を厳格に罰したり排除したりしては社会の平和や秩序が維持できない場合に講じられる一つの便法であり、言い換えれば、「異質な他者を周縁化することによって単一の社会秩序のグラデーション内部に取り込む一つの作法」(24)である。一方、ニューイングランド諸植民地創設期には、異なる信仰を共有する複数の教会共同体が単一の市民共同体内に複数存在するという難しい問題が存在した。すなわち、国教会に対する信教の自由を求めてニューイングランドに入植した会衆派の信徒たちは、同じく信教の自由を求めて入植しながらも異なる教義を奉ずるバプティストやクェーカーらと植民地社会を共同で建設するという実践的課題を突きつけられていたのである。同質的な教会秩序を希求する会衆派信徒の間であれば牧師の給与の支払いやタウンの防衛などの公共義務を平等に負担することができても、異質な教会秩序を希求するバプティストやクェーカーと同じ義務を等分することは容易ではなかった。植民地市民社会の建設という実践的課題と信仰を共有する者による教会社会の建設という理念的課題とをいかに両立させるかという問題でもこれはあったといえよう。この問題の解決のために講じられたのが寛容のいわば便法であった。すなわち、植民地社会開闢時、会衆派の信徒だけで市民社会の秩序が維持できる間は、バプティストやクェーカーらに植民地からの追放を含む不寛容な態度をとることができた。理念的課題を達成する上でもむしろそれが望ましいと判断された。けれども植民地社会が成長し異質な宗派の人々が増加するにつれ、それらの人々の存在を認め植民地社会の実利を増大させることが実践的課題の達成上必要となり、理念的課題の純粋な遂行は部分的に保留せざるを得なくなったのである。

  あらためて確認したい。初期ニューイングランド植民地の形成には、信仰の原理と実在の原理との確執が存在した。生存の実利に照らした比較考量によりその問題を克服することを可能にしたのが中世から受け継いだ寛容の理念であった。植民地開闢時のピューリタンがバプティストやクェーカーに対してとった態度は、その理念に照らした場合、一貫性を欠いたわけでは決してなかったのである。もっとも、その寛容がいかにもプラグマティックに講じられたと述べれば歴史の誤認を招く。その点森本は、良心の自由と信教の自由とを繋ぐ哲学的連関を寛容論の系譜とともに詳細に論じ、我々のニューイングランド理解が必要以上に単純化されることを防いでいる。とくに、哲学者のマイケル・サンデルの言葉に依りながら、良心は「他者ばかりでなく本人すら左右することのできない権威と拘束力を伴った声」(34)であり、その帰結としての信教の自由とは「市民的義務に逆らってさえも、断念することを選択できない宗教的義務の表明により表現される自由」(35)であると説明するくだりは、信教の自由への我々の理解を彫りの深いものにしてくれる。その理解は、一般の基準に照らせば愚かな行いを引き起こす他者の信仰の容認にも繋がるからである。さらに言えば、信仰の内面的自由へのこうした深い共感は、神の前での万人の平等や万人の社会的平等を受け入れる感覚にも繋がっていく。自由、平等、個人の尊厳などの理念と重なり合いながら、良心の自由が信教の自由へと帰結するのは哲学的にたしかに自然なことであった。森本は言う。「人間が自分の意思や選択の自由にならない他者と向き合い、自己の外にある何ものかのよびかけに応えることを求められていると感ずること。そこに神信仰の現代的なアクチュアリティがある(82)」と。自己の外にある存在からの呼びかけを自分が感じるのと同じように、別の存在からの呼びかけを感じる者がいるかもしれない。その可能性を排除できない以上、誰しもが神の前では平等であることを認めねばならない。植民地における市民社会の形成はその了解のうえに行われた。政教分離を構想したピューリタンの歴史経験を事象的理解から構造的理解へ深める一つの道筋がここにある。

  3.抽象的理解から具象的理解へ
本書第二部の第五章から第八章は、マサチューセッツ植民地を離脱しロードアイランド植民地を開いたロジャー・ウィリアムズの思想と行動の分析にあてられる。というより、捧げられるといった方が適切であろうか。良心や信仰を「他者の干渉の及ばない個人の絶対的な不可侵の領域におき、その純粋性を守ること」(56)に心血を注いだウィリアムズへの森本の思い入れは、それほどに強い。ウィリアムズのその信念がアメリカにおける政教分離の原点にあると森本は考えるからである。19世紀ドイツの公法学者ゲオルグ・イエィルネックの考えがこの評価に影響を与えていると森本はいう。「哲学上の要請」である人権とその人権を法律で確定させる「立法者の行為」を区分し(135)、その二つの要請を満たし得た人物とウィリアムズを評価する態度とこれはいってよい。抽象的理念にとどまる信教の自由を法の条文により具象化させたことへの評価と、さらにそれは言い換えることが出来るかも知れない。本書第一部で得られたピューリタンの歴史経験への構造的理解は、第二部で具象の肉付けを受けることになる。

  ウィリアムズ個人の履歴をここで詳細に振り返る必要はない。ただ、英本国とロードアイランド植民地の政治関係が、1660年の王政復古や1688年の名誉革命を境に目まぐるしく変化し、王位についた者の宗派的帰属が同植民地における宗教と政治の関係に大きな影響を及ぼした史実は把握しておくべきであろう。具体的には、王政復古で王位に就いたチャールズ2世が、1662年の統一令で国教会の再強化を図ったものの、1670年にはフランス王と密約を結んでカトリック信仰の復活を画策するという複雑な政治事情が17世紀後半のニューイングランド植民地を覆っていた。その結果、英国本国で立場を強化した国教会および他宗派への寛容をチャールズ2世が植民地のピューリンタンに要請するという事態が生じたのである。バプティストを中心とする会衆派以外の非国教徒への当初の不寛容な態度を捨て、より寛容な態度をとるようロードアイランド植民地のピューリタンも求められた。この流れの中、宗教的不服従と政治的不服従の問題の狭間でウィリアムズは苦悶することになる。なにより彼が心を痛めたのは、その寛容の対象となったバプティストに信教の自由の限度を諭さねばならないことであった。「市民政府の権力が及ぶ範囲は、身体や財産の外的状態に限られる」(118)ことをマサチューセッツ植民地の会衆派教会に訴え、ロードアイランドにウィリアムズはかつて遁走した。同じ信教の自由を根拠にロードアイランド植民地に入植したものの、信仰の不一致を理由に公的義務への不参加を画策したバプティストらに、その信教の自由が市民社会における公的義務を免除するものではないことをウィリアムズは説かねばならなかったのである。純粋な信教の自由を求めてマサチューセッツ植民地を離脱したはずのウィリアムズが、その自由にも限度があることを説かねばならない立場に後年回ったことは、歴史のアイロニーというほかない。「第六章ロジャー・ウィリアムズの孤独」に詳述されるこの経緯は、社会の公的領域に参画する義務と信教の自由との切り離し難い関係を明らかにし示唆に富む。森本は言う。道徳的、宗教的な価値を私的領域に属すものとし「他者に煩わされることなく自己の信念を実践するという消極的な意味での自由」(118)を希求する人々で社会が満たされる時、公共の空間は理念形成的な議論の裏付けを欠く、政治的無関心、道徳的無気力の満つる場と化してしまう。価値形成に対する関与が放棄されたそのような公共の空間で、公的義務への不参加を画策する者が増えるのは自然なことであろう。そのような事態の到来を防ぐためには、自己を取り囲む状況に対し「何らかの形成理念を創出してこれに参与するという積極的な自由」(118)の意義が社会構成員に自覚されねばならない、と。「無色透明な一般的権利の一つではない」(111)価値負荷のかかった権利が信教の自由にほかならない。放埒とは異なるこの自由の両義性を認識することにキリスト教的政治哲学の一つの要請を森本は見ているように思える。

  アメリカにおける政教分離の歴史は、マディソンやジェフェソンらのヨーロッパ啓蒙主義への理解だけに始まるものではない。ロジャー・ウィリアムズが苦悶したロードアイランド植民地における歴史の紆余曲折にもその淵源がある。第二部における森本の主張の要はそこにあろう。その分析を読み進める中で、本書第一部で得たピューリタンの歴史経験への構造的理解は、抽象の次元から具象の次元へと深化する。本章の標題にもある「アメリカ的理念」の「身体」、すなわち自由を具体的に確定する諸制度がその姿を垣間見せるのである。狭義のアメリカ研究の視点からみれば、ロードアイランド植民地の政治社会史研究という学術的意義を本書第二部は持つ。けれども、その射程をゆうに超える自由の理念の具体化の歴史こそ森本が企図したものであろう。ロードアイランド植民地におけるウィリアムズらの経験を「今日も続けられる民主主義の「活ける実験」」(146)と捉える視点はその企図と繋がっている。連邦最高裁判所が憲法修正第一条に下してきた解釈をめぐる諸議論も同様である。

  4.アメリカ社会におけるプロテスタンティズムの「受肉」
 本書には「受肉」という少し馴染みの薄い言葉が何回か出てくる。この言葉は、目に見えない理念が制度や組織の形をとって社会に発現するといった意味で使われている。神の子キリストがイエスという人間に化身してこの世に現れたことを指す英語のincarnationにならって用いられた言葉であろうか。本書第三部の第九章から十二章は、信教の自由を一つの柱とするアメリカ・プロテスタンティズムの理念が社会にいかに「受肉」されたか、その諸相を地域研究ならではの領域横断的な視点から綴ったものである。その意味で、第一部、第二部とは、論考の性格が少し異なる。

   プロテスタンティズムの理念が高等教育の場にいかに体現されたかが、最初に記述される。事例としてとりあげられるのは1636年創立のハーヴァード大学である。全米最古の大学として知られるハーヴァード大学創立の目的の一つは、牧師養成の神学校の設立にあった。今も残る大学の校門の一つには、「教会が無学な牧師たちに任せられないよう」後裔に学問を授けることが大学の目的の一つであることが明記されているという。(174)しかその一方で、教養ある紳士を生み出すことに目的をおいたリベラル・アーツ教育の大学としてハーヴァード大学が発展してきたこともひろく知られる。本来は職業教育と一線を画すはずのリベラル・アーツ教育が牧師の養成を期待された大学で発展してきたのか何故なのか。その理由は、教会の礼典に精通するといった意味での神学的な専門教育をプロテスタンティズムの神学校が必要としないことにあった。聖書解釈を中心とする説教運動にピューリタニズムの精髄はある。したがって、そのピューリタニズムを先導する牧師に必要な専門知識は、教会における秘蹟の施行に必要な韜晦な神学的知識ではなく、様々の職業で働く信徒に聖書の意味を平易に解き聞かせその人格を陶冶する幅広い教養であった。その意味で、ハーヴァードにおける高度はリベラル・アーツ教育こそが、ピューリタンの牧師に求められる専門教育だったのである。リベラル・アーツ教育の大学と牧師養成の大学という二つの顔をこうしてハーヴァード大学は持つにいたったのである。

   教育の場に具体化されたプロテスタンティズムの理念には、一般信徒には理解できないラテン語その他の専門知識で自らの身分を特権化したカトリック教会の聖職者らへの不信の念が含まれていた。一般の民衆が聖書から得る常識的な知識こそを信仰の基礎に据えようとする姿勢がそこには見られる。同じ大衆の情動のレベルにまで訴え得た時、アメリカ・プロテスタンティズムは大きなうねりとなって社会を覆いもする。その意味で、教会に指導に依らない個人の回心体験を梃子に信仰の再生を図った信仰復興運動(リヴァイヴァリズム)や神の前での平等を含意する信教の自由の追求が、現代アメリカにプロテスタンティズムが生み落としたナショナリズム他の諸思潮の淵源となったと指摘する森本の議論には一定の説得力がある。信仰復興運動の即時的な理解は第十章における森本の詳述に全面的に委ねよう。むしろここで確認しておくべきは、アメリカ・プロテスタンティズムの諸相を理解するのに欠くことのできない信仰復興運動や政教分離などの諸事項が、本書第三部の各論を通じ、信教の自由を縦糸に確かな繋がりを見せ始めるということである。杜撰と誹られることを承知の上で記せば、次のような筋の話に言いまとめられよう。17世紀に端を発した信教の自由を制度的に確定させるために、18世紀末に政教分離の原則が連邦憲法に書き込まれた。しかし、公的権力からの経済的支援を受けられなくなった教会諸組織は、19世紀に入るとある意味の市場競争原理に晒され、信徒獲得に奔走しなければならなくなった。19世紀前半の第二次信仰復興運動や20世紀に大衆化を深化させた福音主義諸宗派の運動は、いずれもこの信徒獲得に向けた伝道の実践的形態とみなすことができる。そこに認められる大衆動員の志向と技術は、男性信徒獲得に向けたYMCAの設立や教会によるスポーツ振興運動から20世紀の各種選挙運動や膨張主義外交にまでその影を落としている(189、215-216、224、247-250)。高等教育組織の哲学的基盤の解明に始まったアメリカ・プロテスタンティズムの社会的帰結への森本の探求は、現代アメリカの政治文化へとその探索の範囲をひろげていく。地域研究ならではの領域横断的視点が十二分に効いているとここは評価したい。

   もちろん、第一部や第二部の精緻な分析に比べ、第三部の記述に印象論的な記述が増えることは認めねばならない。アメリカ史上の諸思潮にピューリタニズムに発するプロテスタンティズムの影響を大きく見出し過ぎていないかという懸念が一つ生まれる。例えば、情動に迫る福音主義的訴求力をアメリカのナショナリズムが備えているとしても、二つの思潮の間の関係を本書が構造的に解明し得ているとはとうてい読めない。また、20世紀初頭におけるキリスト教の男性化を同じキリスト教の女性化への反動として本書は主に説明しているが、それは十分説得的であろうか。例えば教会員の性別分布における不均衡という意味でのキリスト教の女性化ならば、19世紀の前半に既に見られた現象であろう。だとすれば、キリスト教の男性化が始まるのに20世紀の初頭まで待たねばならなかった理由は何であったであろうか。「宗教の力は、男性の血をたぎらせる何ものかに表現の導水路をあたえることで発揮される」(258)という森本の指摘には膝を打った。しかし、男性白人の間にプロテスタンティズム信仰を再燃させることと、例えば20世紀初頭における新移民の大量流入の間には有意な関係があると推測する方が説得的ではないかと思われる。そして最後に、本書の議論がニューイングランド中心にアメリカの多元性を見ることに終始していないかという懸念が拭えない。例えば、月並みだが、北部対南部というアメリカ国内における19世紀最大の価値秩序の相克をさらに深く読み解く視座が森本の行論から浮かび上がってくるようには読めなかった。ただ、これらの諸点で議論が不足していることは、本書全体の学術的意義を大きく損なうものではない。本書第三部では、そうした部分的瑕疵に目をふさぐことで、キリスト教にみるアメリカ的「理念」の「身体」を素描することが可能となったと評価する方が妥当であろう。アメリカ研究としての学際的な身幅を第三部は本書に与えているのである。アメリカの「自由」に内在する汚点や矛盾を鋭く付く研究は数多い。しかし、その汚点や矛盾に目を奪われ過ぎそれでも歴史が前進することの意味を大局的に把握しそこなってはいけない。その意味で森本の主張(266)に首肯する。「自由」に汚点や矛盾が内在する事実、人間の本性的弱さに我々の思いを至らせる点にこそ本書の意義はある。

  4.「自由」の理念が辿った具体化の歴史をあらためて問う意義
 多言は要しまい。ロジャー・ウィリアムズを「道徳的には天才だったが、社会的にはとんでもない厄災」であったとしたロバート・ベラー(Robert A. Bellah)の分析に森本は以下のような言葉をつないでいる。「強固な自我意識の尊重が社会的連帯への意思と相即していなければ、個人主義はいずこにあってもそれ自身の重力で社会を内側から瓦解させてしまうからである」(147)と。その緊張と共に生きるには宗教や道徳などの価値を論じ合える公共の空間が必要とされる。アメリカにおける「信教の自由」や「政教分離」の歴史を学びその空間の創出の意義を説くという森本の本書執筆の目的は十分に達成されている。