statement

遠藤泰生の自己紹介と指導ゼミへの抱負

  私の研究関心は多岐にわたります。年代のうえでは、18世紀から19世紀、20世紀転換期頃までのアメリカ合衆国の歴史と文化に最も強い興味を抱いてきました。近代史と総称されるものがその基軸になると考えて良いでしょう。別な言い方をすれば、「現代アメリカ」と呼ばれる「国」が姿を現す経緯を見つめながら、アメリカ合衆国の現在を理解することに研究の目的をおいてきました。今もそれが研究への基本的な姿勢です。植民地開闢以来の多様な文化-人種・民族・性・階級・思想・自然環境等-がいかなる接触・混淆の過程を経て、国の体裁を整えるに至り、不断に変化する歴史的時空間の中で、それがどのような変容を余儀なくされてきたのか。その歴史的体験はアメリカ合衆国の歴史的個性をどのように規定してきたのか。そして、その規定をアメリカ合衆国の国民自身はどう理解し、世界の人々はその規定とどのような関わりを持ってきたのか。そうした問題を主に考えています。

  現在勤務する東京大学アメリカ太平洋地域研究センターは、そうした多方面に広がる私の学術的関心を受け止めてくれる最良の職場の一つと思います。事実、そこを中核とする様々の研究プロジェクトに加わり、自分の学術的興味がより広い文脈でどのような意味を持つのかを考え続けてきました。また、もう一つの所属先である大学院地域文化研究専攻では、北アメリカ地域以外を専門とする地域研究の同僚に恵まれ、自分の学術的関心の拡張を日々迫られています。

  指導ゼミには私の雑多な学術的関心に応えてくれる学生が多数集まってくれています。学生の専門は近代のアメリカ合衆国に必ずしも限られません。他の先生のゼミを経て私の指導ゼミに参加するようになった学生も少なくありません。そこが私のゼミの特徴の一つです。院生・学部生を問わず、学生に対する指導の基本方針は、大きな視野から問題を掘り起してもらうことにあります。地域研究に限ったことではありませんが、近年の人文社会科学の研究には、身近な問題に関心を絞りすぎていないかと私には感じられるものが増えました。あるいはそれは、等身大の視点から自己を見つめ直す試みなのかもしれません。確かに、身近な問題に深い意味が潜むことを発見する時も多々あるでしょう。しかし、学術研究の意義は身近な視点から自己を探ることと、遠く離れた視点から自己を探ることの両方にあると私は考えます。そのバランスをとりながら、自分にとって、社会にとって、何が大切な問題かを深く考える必要があるでしょう。また、重要な問題であるならば、他の多くの研究者が既に挑んだ問題や一見して訳が分からない問題であっても、それらと格闘する意義が十分にあります。研究における自分のオリジナリティや問題への解答が容易に得られずに学生は苦しむかもしれませんが、その問題を考え抜いた末に得られる成果、喜びには一層大きなものがあるはずです。というと、いささか無責任な指導教員の言葉になりますが、ゼミの学生はやや突き放した私の指導によく付き合ってくれています。国内外を問わず着実に成果を挙げてくれている学生諸君には心から感謝する次第です。

  第二次世界大戦直後から制度化された日本の「アメリカ研究」は、当初、アメリカ合衆国の社会や政治を研究する学問では必ずしもありませんでした。近代経済学や文化人類学などの諸学問も「アメリカ研究」の括り中に入っていたのです。戦後日本にとっての「世界」にも等しかった、アメリカ合衆国という存在を越えた「アメリカ文明」を研究するのが、その主目的であったと言い換えてよいでしょう。日米関係における非対称性の問題とこの問題は不可分な関係にあります。その問題に深く立ち入る余裕はここではありませんが、その後、狭義の「アメリカ研究」が日本に根付き、若手の研究者は今や国際学会においても積極的に成果を発信する時代になりました。ただ、それと同時にいま一度、自分たちの「アメリカ研究」をより広い文脈に据え直す努力を続けなければなりません。やや大げさな言い方をすれば、世界の在りようと自分の研究課題との接点を常に意識しながら、研究・教育の現場で学生諸君と対話を重ねていきたいと私は考えています。