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アメリカ学会シンポジウム「21世紀のアメリカと<ボーダー>」

2009/6/5 金曜日

・ 日時: 2008年5月31日, 15時10分~17時40分 

・ 場所: 寒梅館ハーディーホール

・ 司会 遠藤 泰生(東京大学)

・ 報告 篠原総一(同志社大学)「経済のボーダレス化とアメリカのボーダー」

・ 報告 村田晃嗣(同志社大学)「ボーダレス化するアメリカの安全保障観」

・ 報告 下河辺美智子(成蹊大学)「自殺的自己免疫の症候:自己と他者のボーダー再考」

・ 報告 東栄一郎(ペンシルヴェニア大学)「アメリカに於けるアジア系アメリカ人研究とアジア研究:エスニック・スタディーズと地域研究の境界と交差」

・ コメント 秋田茂(大阪大学)

   2008年度のアメリカ学会年次大会は「ボーダー」を一つの共通テーマに掲げてプログラムを構成した。「ボーダー」がきわめて多義的な言葉であることは言うまでもない。たとへ「国境」という意味にそれを理解するとしても、単なる自然地理上の国境(くにざかい)から政治経済における区分単位、あるいは国民の利便を確保する法域の境界まで、様々の「ボーダー」がそこには含まれる。一方、人種やジェンダーなどの概念の境界を「ボーダー」ととらえるならば、その意味する範囲はほとんど無限大にひろがっていく。学際性を方法論上の特色とするアメリカ研究においては、専門分野の境界もこの「ボーダー」に含まれよう。「ボーダー」という言葉が喚起する問題群は実に多岐にわたると言わざるを得ない。ヒト・モノ・カネが国境を越えて地球大に行き来する現在、その「ボーダー」の視点はアメリカ(合衆国)の過去と現在を把握するのにいかほどの有用性を持ち続けるのか、政治経済の「ボーダレス」化は国民の在り方を具体的にはどのような形で新たに規定しているのか、そして、それらの問題を研究者はいかなる視角から分析しつつあるのか。専門分野を異にする複数の研究者が「ボーダー」という言葉が想起する様々の問題を指摘し合うことで、「ボーダレス」の時代におけるアメリカの「ボーダー」とそれを把握するための研究の視座を探る必要がある。本年のシンポジウムはそのような問題関心のもとに企画された。以下、各報告とコメント、質疑の内容を簡潔に書きとどめておきたい。

  
 最初に篠原総一が、経済におけるボーダーの変容を取り上げ、以前と異なる役割を国家が果たさざるを得なくなったアメリカの現状を報告した。例えば、古典経済学的な意味での市場原理が生み出す社会の歪を正すのが国家の責務であった時代に比して、企業の生産現場の国際化、労働力の国際移動、金融資本の国際相互依存などが進む現代においては、国民の幸福と利便を確保するのに果たしうる国家の役割に限界が生じつつある。国境を越えた経済の動きに国家が迅速に対応仕切れないそうした例を、納税者の税負担に見合う金融政策を日米両政府が有効に打ち出せない現状に求めながら、国家の持つ経済的意味が今後大きく変容する可能性を篠原は論じた。

   続いて村田晃嗣が、アメリカの安全保障問題を語る語彙の変化に着目し、国防論におけるボーダーの意味の変容を報告した。領土内の安全を確保することが第一の目的とされた国防は、免疫学的メタファーを用いて議論されることがかつて多かった。しかし、その安全を脅かす因子が一国の国土を視野に収めるだけでは把握しきれなくなった現在、よりひろく、例えば、人間の安全保障や総合安全保障といった言葉に変換されて国防は語られるようになった。defenseからsecurityへのこの視点の変換がアメリカの安全保障問題のいかなる構造変化を物語っているのか、大量破壊兵器の拡散阻止、地球環境問題、移民問題等に触れながら村田は分析を試みた。それは、ボーダレス化の時代におけるボーダーの意味を問う格好の議論となった。

 

  続いて下河辺美智子が、フランスの哲学者ジャック・デリダが「9.11」の分析に用いた「自己免疫」の概念に着目し、異なる他者の封じ込めに奔走してきた20世紀アメリカの思想に自己を破壊する契機が内在する恐れを報告した。19世紀の末に大陸大の領土拡張を終了したアメリカは、その後、理念の伝播を方法とする遠隔地の領域支配にのりだしたと考えられる。しかしそこで問題となるのは、離れた領域を自己に統合する際、封じ込めの論理で他者の支配を図った結果、他者を排除し攻撃するシステムがアメリカ内で逆に自己増殖し、やがては自身の安全をも脅かし始めた点にあったと下河辺はいう。「9.11」におけるテロリストの存在をそうした生物学的概念の援用で説明したデリダの議論を踏まえながら、統合を拒否する絶対的他者の存在に行きあたった現代のアメリカにおける思想上の袋小路を下河辺は指摘した。

 

  最後に東栄一郎が、アングロ中心主義に基づいた国民国家の絶対性に批判を加える「トランスナショナリズム」が歴史学の潮流となった現在、アジア系アメリカ人研究がそのディシプリンに由来する理念的限界を払拭し得ていないおそれを報告した。アジア系アメリカ人の「人種体験」を価値ある「アメリカの過去」として再定義することがアジア系アメリカ人研究の中心課題とされて久しい。そのこと自体には問題は少ない。しかしその代償として、アメリカ中心主義的ナショナリズムをその歴史の分析と語りに内在させることにアジア系アメリカ人研究はなった。その枠組みから抜け出すために、「間・国家パラダイム」の視点を導入すること、すなわち、アメリカと母国とのどちらのナショナリズムにも身を任せた両義的で変幻自在の移民の歴史主体を捉え直すことが必要だと東は指摘した。エスニック・スタディーズと地域研究の交錯を方法論上の可能性として提示した東の報告は、アメリカにおける日系人史研究の最前線に立つ者の報告として興味を惹いた。

 

  これらの報告に対し秋田茂が、アジア、ヨーロッパ、アメリカの三極を見据えたトランスナショナルな歴史観を日本からもっと発信すべきであるという主旨のコメントを加えた。とくに、アメリカの帝国性を日米二国間関係に拘束されない視点から検討する必要性にアメリカ研究者がどれほど自覚的かという問いを報告者に投げかけ、質疑応答を行った。このほか、新川健三郎、油井大三郎、古矢旬らから各質問者に質問が出された。

  「ボーダー」という言葉を学会のテーマに据えたことは、遅きに失したという批判を受けるかもしれない。国民国家の凝集性に着目し多民族社会や連邦政府の統合原理を探ることに力を注いだ従来のアメリカ研究に対し、「越境」の視点を導入して、様々の次元に存在するアメリカを相対化することに近年のアメリカ研究は腐心してきた。2007年の年次大会に来日したASA会長エモリー・エリオットが講演でその点を強調したことは記憶に新しい。しかし、「9.11」以後のアメリカにおける諸状況はそうした「ボーダレス」への流れを押しとどめるナショナリズムの復調を印象付けた。であるならば、アメリカとアメリカ研究における「ボーダー」の現在を再検討しておくことが新たな研究の展開には有用であろう。時代思潮が振り子のように振れるなかで今後のアメリカが着目する「ボーダー」のかたちに注目が集まる。