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油井大三郎『好戦の共和国アメリカ――戦争の記憶をたどる』(岩波新書、2008年)

2009/8/22 土曜日

  デモクラシーの旗手を標榜する一方で、デモクラシーを守り、ひろめるためには、デモクラシーとは対極の存在であるはずの戦争も厭わない。アメリカ合衆国(以下アメリカと略記)が示すこの両義的な態度は何に起因するのか。誰もが抱くその疑問に答えることに本書の目的はある。植民地時代以来のアメリカの戦争の歴史を振り返ることで、好戦性と非戦性がせめぎあう、アメリカ固有の戦争文化に著者は切り込んでいく。

  戦争の歴史を研究することと戦争を肯定することとは、言うまでもなく、別である。しかし、平和主義ナショナリズム、戦争放棄を是とする戦後の日本では、人類史上重要な位置を占める世界戦争の大義やそこに照射された各国の歴史観などを吟味することするが敬遠されてきた感がある。現代日本の学術全般におけるそうした平和観が災いしたのであろう、アメリカ合衆国の戦争体験を俯瞰する研究書が日本語ではまだ一度も書かれたことがなかった。そのこと自体驚くべきことであり、その不足を補おうとした著者の努力にまず敬意を表したい。

  中心となる記述は全6章からなり、植民地時代から独立戦争の時代、建国期から米墨戦争の時代、南北戦争から米西戦争を経てアメリカが海洋帝国化する時代、二つの世界大戦の時代、朝鮮戦争からベトナム戦争までの時代、ポスト冷戦期から「9.11」以降、に分けられ論じられている。それらの戦争を多面的に描くことに著者は力を注ぎ、そのために多くの研究書を参照している。新書ではあるが記述は丁寧で、多くの研究書を渉猟した成果が十分に表れている。それが本書の第一の価値であろう。実際、植民地時代の先住民との戦いから、独立戦争、南北戦争、米西戦争へと、19世紀末にいたるまでの合衆国の戦争の歴史をこれだけバランスよく記述した書物を私はほかに知らない。しかも、欧米系の諸列強との間では局地的な限定戦争を行うのが基本的姿勢であるのに、先住民に対しては徹底した殲滅戦を挑む、戦争の「二重基準」(12)とでも呼ぶべきものが合衆国には植民地時時代以来存在した点を指摘するなど、19世紀から20世紀へと継承される戦争の伝統、戦いを構成する戦争観の析出に著者は優れた力量を示す。例えば、啓蒙主義の伝統とも言うべき「戦争自制」の伝統が19世紀領土拡張の流れのなかでいつしか後景に退き、アメリカの国是の進捗のためには武力に訴えることを必ずしも否定的捉えない戦争観が米英戦争を転換点に育っていった点(53)など興味深く読んだ。成功し過ぎた国造りの歴史とも言える19世紀アメリカの歴史の深層に触れるこれらの指摘は、無謀な企てであったと著者自身しきりに謙遜する概説書の形をとったが故に可能となったのではないだろうか。

  アメリカでは研究の深化が著しい南北戦争に関しても、その原因や戦いの帰趨を決した政治経済の要因などを含めた多面的な戦争の姿が記されている。しかし、そうした南北戦争史ならば実のところ類書がある。本書の独自性は、それらの戦史をさらうと同時に、未曾有の戦いが戦われる一方で、複数の平和運動、平和思想が芽生えたことに目配りをしている点であろう。クェーカー教徒の良心的兵役拒否をリンカンがどのように扱ったか、平和協会等々の運動がどのように展開したか、著者はあまり知られない逸話を大切に記していく(86-87)。戦争すなわち武力の行使を回避した平和的な紛争解決の歴史をアメリカがどのように築いてきたか、その可能性を見つめるのも著者の大きな問題関心なのである。オレゴン領土問題の処理に関する記述から(63)から世紀転換期の平和運動の検討(120)、第二次世界大戦中の良心的拒否者の存在への言及(152)、1993年のニューヨーク、ワールドトレードセンタービル爆破事件の処理に関する解釈(217)に至るまで、その視点にぶれはない。注意深く本書を読む者は、アメリカの好戦論はそれらの非戦論とともに時代を超えて、言葉を換えて、紡がれてきたのであり、その緊張関係のなかから条件的交戦論や原理的非戦論、状況的非戦論等々の視点が生み出されてきたことを学ぶに違いない。戦争の歴史をただ批判的にみれば平和を構築できるわけではない。平和を希求するにはその平和と戦争の緊張を理解することが重要となる。それを伝えている点に本書のもう一つの大きな価値がある。2002年ブッシュ・ジュニアが提唱した「先制攻撃論」への批判など(225)、そうした非戦論の流れを視野の片隅におくことで、さらに説得力を増す。

  ただし、そうした戦争をめぐる両義的な流れを丹念に追う作業は、何故(why)アメリカは戦いを思いとどまらないのかという分析(analysis)より、どう(how)アメリカは戦いを思いとどまらなかったのかという記述(description)により多くの紙幅を割くことに繋がった。20世紀アメリカの戦争の歴史を振り返った後半部はとくにその性格が強いように読めた。そこに不満を覚える読者はいるであろう。例えば「ミュンヘン症候群」と「パールハーバー症候群」(163)「ベトナム症候群」(201)など興味深い戦争観が20世紀のアメリカ体験を通じて幾つか形成されたと著者は指摘する。しかし、さらに知りたいのは、それらの戦争観もしくはトラウマが原因となって起こるその後のアメリカの行動様式だけではなく、なぜそれらの戦争観、トラウマがいつまでも消えないかという点であり、とどのつまり、にもかかわらず何故戦争を続けるのかという問いへの答えであろう。「民主主義故に戦う」ことと「民主主義故に戦いを思いとどまる」ことの距離はどのくらい遠いのか、近いのか、その二つの主張はどのような思想的構造故にアメリカに併存していられるのか。本書はまだ十分に答えはてくれない。それらはこれから研究を行う若い歴史家への問いかけということになろうか。そうした魅力ある問いを幾つも投げかけている点が、本書のさらなる価値と言える。

  18,19世紀の国民国家形成の歴史を経てアメリカは主権の絶対性への信仰(136)を獲得したと著者は考える。しかし21世紀においては、超大国といえども国際協調を図らねばならない。それを可能とする新たな主権観を(242)アメリカが獲得できるか否か、予断は許さない。しかし、ひとつ感じたのは、著者は、アメリカの未来にまだ希望を捨てていないのではないかという点であった。その著者の思いが、好戦と非戦のアメリカの歴史を振り返る本書を貫いているように私には読めた。同じ岩波新書に含まれる、藤原帰一『デモクラシーの帝国』、西崎文子『アメリカ外交とは何か』などと合わせ読むのもよい。