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地域文化研究専攻第17回公開シンポジウム「地域文化研究の現場から」

2010/2/8 月曜日

  2009年11月28日(土)駒場18号館ホールにおいて地域文化研究専攻主催の公開シンポジウムが開かれた。毎年秋に開かれるこの催しも今回で17回目を数える。それだけ地域文化研究専攻が先端研究の社会的還元に熱心であり続けているという話であるならば、専攻に所属する教員として筆者もたいへん心強い。しかし事実はそれほど明るい話ではない。「地域」や「文化」の意味が多様化している現在、「地域文化研究」の意義を語ることは以前よりも難しくなった。研究者が直面するそうした学術的問題を討議する機会を設けるために本シンポジウムは企画された。結果は大成功であった。専攻教員と大学院生、さらには専攻出身の研究者が、学内外からの参加者とともに、批判的議論を交わす貴重な時間を共有し得たからである。

  第一部「文学・思想研究の現場としての地域」では、文学や思想と地域との関係性を考える三つの報告が成された。最初に中尾まさみが、北アイルランド出身の詩人シェイマス・ヒーニーにとっての地域を論じた。血なまぐさい紛争や暴力のイメージが先行する北アイルランドから、自己の帰属を部分的に切り離すことで逆にその地域を凝視する視点を獲得したヒーニーにおいて、文学と地域とが常に緊張を孕む関係にあることが詳細に報告された。続いて原和之が、フランスにおける精神分析の諸学派間に存在する軋轢の契機を、分析の理論そのものに探った。分離または抑圧によって生まれる個の自覚が不可欠とされる精神分析家の養成には、一方で組織的結合が指向され、その対抗する二つの力が分析諸学派間の緊張に自己言及的に結びつく。その構造をフランス精神分析学の地域性の一つと原は指摘した。最後に奥彩子(阪大COE特任研究員)が、ユーゴスラヴィアのユダヤ系作家ダニロ・キシュと地域の関係性を論じた。全体主義と共産主義の波に晒され続けた中欧のユーゴスラヴィアにおいて、ナショナリズムに絡め取られずにある種の普遍に接近するアイロニーとしてキシュのユダヤ性が存在すること奥は指摘し、地域を超える試みが逆にその文学の地域性となり得る可能性を示唆した。

  第二部「地域への視線と研究者」においては、研究者と地域との関係性を論点に含む四つの報告が成された。最初に森井裕一が、2009年12月1日のリスボン条約発効にいたるまでのEU内の政治過程を振り返り、地域統合の事例としてそれがいかほどの普遍性を持ち得るかを検討した。主権国家から政治共同体への権限付与という構図を共有しはするものの、東アジア共同体の可能性とEU統合を重ね合わせて論じることは地域固有の歴史を無視するに等しい。地域統合にも地域性が存在することを森井は明快に論じた。続いて森山工が、マダガスカルと他地域との葬制比較を糸口に、固定した実体として捉えることを拒む文化の概念を提示した。研究者の関心に応じて地域が融通無碍に姿を変える以上、同一の文化要素であってもその意味は地域ごとに大きく異なる。地域は研究の出発点ではなく問題を理解する一つの枠組みでしかない点を森山は強調した。次に田上智宜(学振特別研究員)が、現代台湾における婚姻移民政策の変遷を取り上げ、集団の帰属よりも個人の選択を重視する国民編成原理が台湾におけるネーションを形作りつつあることを明らかにした。最後に石橋純が、ベネズエラでは未だ十分に言説化されていない人種主義の問題を映像化する自らのプロジェクトを紹介し、石橋自身が研究の現場に対抗的文化運動を引き起こしている可能性を報告した。

 

  締め括りとして恒川惠市(JICA研究所長)、山本博之(京大地域研究統合情報センター)、足立信彦の3名が各報告にコメントを試みた。地域文化研究を貫くディシプリンの存否については長く議論されてきたが結局結論は出ていない。おそらくこれからも出ないであろう。今回の主旨と似たような主旨を持つシンポジウムをおよそ10年の周期で本専攻は開催してきたのだが、それも、地域研究を貫くディシプリンがあるか無いかという問いに正解がないことの傍証と言えよう。重要なのは、地域文化研究の現場が様々のディシプリンの可能性を切磋琢磨する舞台となり、多くの研究者、院生が、地域を軸に据えた問題関心を深化させることに寄与してきた事実なのである。本シンポジウムにおける議論の豊饒さがその何よりの証しにほかならない。報告者、参加者がその点をあらためて確認する良き機会とシンポジウムがなったことを最後に記し、本シンポジウムの報告を終える。