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有賀夏紀・紀平英作・油井大三郎編『アメリカ史研究入門』(山川出版社、2009)

2013/11/26 火曜日

はじめに

  アメリカ史学研究の潮流がどのくらいの周期で移り変わるとみれば妥当か、研究者によって意見は異なるだろう。私見に過ぎないことを承知のうえで述べれば、約20年を一周期とするといったところではないだろうか。もちろん、20年ごとに綺麗さっぱり新しい潮流が古い潮流を洗い流すという意味ではこれは無い。従来の歴史像を越える、もしくは越えようとする新しい歴史像が生まれるのが、約20年おきぐらいではないかという意味である。となると、人の世の一世代を30年余りと考える見方に立つとすれば、同世代の歴史家はその生涯に少なくとも二つ以上の歴史学の潮流を目にすることになる。

  試みに20世紀におけるアメリカ史学研究の流れを思い出してみたい。19世紀後半のアメリカ合衆国におけるアメリカ史研究は、愛国的なナショナル・ヒストリーの構築を第一の目的としていた。それはおそらく、国民国家の建設に忙しかった欧米各国の潮流と共振するものだったろう。ジョージ・バンクロフト他の、「ジェントルマン・ヒストリアン」たちがその責を担った。自国史としてのアメリカ史研究が、より科学的な訓練を受けた職業史家たちの手に委ねられるようになったのは、アメリカ歴史学協会(American Historical Association )が創設された1884年頃のことであった。そして、パトリアへの愛一辺倒のそれまでの歴史叙述に進歩と保守との対立の視点を持ち込んだ革新主義史学が隆盛したのが、1910年代から20年代にかけてのこと、チャールズ・ビアードの『アメリカ憲法の経済的解釈』(1913)他がその先陣を切ったと考えてよいだろう。 経済史の動向に暗い私の記憶に大恐慌時代の歴史学は印象に強く残っていない。ただ、40年代末から50年代にかけては冷戦の思潮の一端を担うべく、コンセンサス・ヒストリーが隆盛を極めたことは周知のとおりである。この流れに対し、60年代に始まる異議申し立ての政治文化のもと、ニューレフトその他のリヴィジョニスト・ヒストリーが、人種、ジェンダー、階級の各視点から、コンセンサス学派が作り出したアメリカ史像の仮構性を糾弾するようになる。ベトナム戦争が終焉を迎える70年代にかけては、「下からの歴史(history from the bottom up)」の言葉に象徴される、もの言わぬ民の声をすくい上げる視点がアメリカ史研究の一大潮流となった。さらに、ヨーロッパのアナール学派などの影響が加わり、80年代、90年代には新しい社会史と総称されるアメリカ史研究が一斉を風靡するようになる。人種、性、階級によらず、市井の誰もが主体として歴史に登場するこの新しいアメリカ史像は、当時歴史家のツールとして普及し始めたパーソナルコンピューターの力を借りながら、物理的にも質的にも分厚いモノグラフとなって我々の眼前に姿を現した。エリック・フォナーの再建期の研究やショーン・ヴィレンツのニューヨーク労働者の研究などその最たる例ではないだろうか。 21世紀転換期以降、現在のアメリカ史学研究の目立った動きをあげるとすれば、それは、アメリカ史研究のグローバル化ということになろう。グローバルな文脈に据え直して歴史の叙述を試みることと、アメリカ人史家以外の外国人歴史家の視点を叙述に導入することの二つを、このアメリカ史研究のグローバル化は含意する。

  このような印象論的な史学史の素描にさしたる学術的意味はない。ただ、アメリカ史学に関する研究動向のサーヴェイが頻繁に行われる理由を考える手助けぐらいにはなろう。アメリカ歴史学協会の意向を受けたエリック・フォナーとリサ・マッガーの共編によるAmerican History Nowが2011年アメリカ合衆国で刊行されている。 その旧版にあたる同じくエリック・フォナーの編集によるThe New American Historyが刊行されたのが、およそ20年前の1990年である。1997年にその増補改訂版が出されているとはいえ、約20年周期でアメリカ史研究の潮流が新たな転回を迎えるという感想はあながち的外れではないかもしれない。

   本稿でとりあげる有賀夏紀・紀平英作・油井大三郎編『アメリカ史研究入門』(山川出版社、2009)もそうしたアメリカ史研究の転回に合わせて旧版を改める形で刊行されたものである。もっとも、その改版の速度は本国におけるアメリカ史学サーヴェイの改版のそれよりもいくらか速い。まず、中屋健一が書き下ろした『アメリカ史研究入門』の初版が1952年に刊行されている。その後この版は1968年に増補改訂がなされた。続いて清水知久・高橋章・富田虎男の三名による『アメリカ史研究入門』が1974年に刊行され、この版は、1980年と1987年に、新たに刊行された論文・著作の紹介を含めた増補改訂版へ版を改められている。これだけ頻繁にアメリカ史研究の入門書が版を改めてきたこと自体、日米両国の国内政治や世界情勢の影響を直に受けながら展開してきた日本のアメリカ史研究の性格を示唆して興味深い。戦後日本の大学で西洋史一般を学ぶ学生たちにアメリカ合衆国の歴史の特質を説き明かすことに情熱を傾けた中屋ほかの戦後第一世代 、ベトナム戦争の最中、世界を抑圧する帝国主義の「総本山」とアメリカ合衆国を捉えその歴史を批判的に語ることに力を注いだ清水ら戦後第二世代 、それぞれが、激しく移り変わる日本の時代思潮と自己の研究とを共振させながらアメリカ史研究の入門を執筆してきたわけである。その清水らが最後に改訂版を出版してからおよそ四半世紀を経て本書は刊行された。その内容は、国内外のアメリカ史研究の新潮流に最大限触れつつ、これからアメリカ史研究を志す学生や既存の研究者にバランス良く情報を伝えようとする編著者の苦心を随所にうかがわせるものとなっている。例えば、必ずしも立場を同じくしない、清水らの旧版に比べれば統一感に欠ける様々の歴史解釈が本書には平行して数多く紹介されている。そのことに対し、編者の一人である油井大三郎は、「総説」のなかで、「入門書の場合は多様な傾向の研究を提示して、その選択は読者に任せたほうがよいと考えた」から「新版の編集にあたっては、さまざまな解釈を対置する編集方針をとることとした」と述べている(5、以下『入門』(2009)からの引用は煩瑣を避けて、頁数だけを記す)。しかし、中屋や清水たちの世代とは異なり、一つの総合的な歴史像を大胆に提示するよりは「さまざまな解釈を対置する」ことを大切にするその姿勢もまた、21世紀の時代思潮とじつは言えよう。既に本書の内容に優れた分析を行っている中野聡は、中屋や清水らのアメリカ史研究が強い政治性を帯びた「ポジショナリティの学問」であったことに比して、2009年に刊行された本書からは、「ポジショナリティの前提が日本や日本人という集合的なアイデンティティから、もう少し断片化した、あるいは私的でさえあり得る、研究者個人の問題意識へと代替されるつつある」時代が透けて見えるという。 大枠として中野の指摘に筆者も賛同する。そして、グローバル化の時代において人々の生きる選択肢が以前より拡大したこととこの問題意識の個人化との間には深い繋がりがあると筆者は考えている。 そうした時代思潮とアメリカ史研究の関連を意識しつつ、以下、本書の内容をかいつまんで紹介し、その特徴に若干の考察を加えてみたい。

本書の構成:通史編

  前身である『アメリカ史研究入門』(1952)が中屋健一の単著であったのに対し、『アメリカ史研究入門』(1974)は三人の著者による共著であった。そして今回の『アメリカ史研究入門』(2009)は有賀・紀平・油井の三人を編者に総勢20人の歴史家によって書かれている。この点だけをとっても、ここ数十年の間に国内外のアメリカ史研究が質量ともに深化し、一人の歴史家の努力で全体をカヴァーできる専門分野では最早なくなったことが容易に推測できる。

 

  それぞれの『入門』の章立ても大きく異なる。中屋の著作の場合、序論である「アメリカ史への手びき」に始まり、以下、「アメリカ史学の発達」「フロンティア学説とその批判」「米国史におけるナショナリズムとセクショナリズム」「米国史における社会階級」「移民とアメリカ人の形成」「アメリカ政党の特質」と章が続く。今日的史学史の理解からすれば、この章立てはややユニークと言えよう。 植民地時代から独立革命を経て国民国家が成長し、やがて帝国的アメリカが出現する歴史をたどると言うよりは、アメリカ社会を分野別に切り取りそれぞれに歴史学的考察を加えるという姿勢がそこには顕著だからである。アメリカ社会を切り分ける視点こそ異なれど、戦後間もなく出版された高木八尺『アメリカ』(1948)の章立てにこれは似ている。 アメリカ研究全体の発展に寄与するアメリカ史研究を心掛けた中屋ならではの姿勢がこの章立てには現れているといえよう。一方、清水らの著作の場合、「はしがき」に続き、「イギリス帝国下の植民地(1660~1775)」「アメリカ帝国の形成(1770~1820年代)」「アメリカ帝国の確立(1828~1877年)」「世界帝国への道」「世界帝国の完成と破綻」と章が進む。最後に「付録」として基本文献表他が収められているのが史学研究の入門書らしいが、「アメリカ史を帝国の歴史と捉え、差別の全体系としての帝国に反対するという立場で」執筆を統一するという共著者3名の姿勢がはっきり現れた、明確な章立てであった。既述の中野が指摘するとおり、本書を書斎における所産というよりは「一種のポリティカル=スカラーシップの所産」と自負した清水らの面目躍如たるものがある。
 2009年の有賀らの著作は中屋のものとも清水らのものとも構成が大きく異なる。目次に沿ってその内容を紹介すれば以下になる。まず「総説」(油井大三郎)の後、著作全体が三部に別けられ、第I部通史編が「序章 アメリカ史はどのように描かれてきたか」(紀平英作)、「第1章 植民地時代 17世紀初頭~1760年代」(和田光弘)、「第2章 独立戦争から南北戦争へ 1770年代~1865年」(田中きく代)、「第3章 再建と金メッキ時代 1865~1898年」(岡山裕)、「第4章 改革の時代と二つの世界戦争 1898~1945年」(中野耕太郎)、「第5章 冷戦期 1946~89年」(島田眞杉)、「第6章 現代のアメリカ 1990年~」(砂田一郎)から構成され、そして、第II部テーマ編が「序論 アメリカ史研究の変容」(有賀夏紀)、「第1章 歴史のなかの人種・エスニシティ・階級」(貴堂嘉之)、「第2章 ジェンダーの視座から見るアメリカ史」(安武留美)、「第3章 宗教と思想に見るアメリカの自己理解」(森本あんり)、「第4章 コミュニティ, 学校と「アメリカ人」の形成」(中村雅子)、「第5章 ポピュラーカルチャーの見方と見え方」(生井英考)、「第6章 歴史のなかの環境」(小塩和人)、「第7章 軍事思想・制度の歴史的変遷」(宮脇岑生)、「第8章 日本にとってのアメリカ」から構成される。最後に第III部資料編が「第1章 参考文献」(橋川健竜)「第2章 アメリカ史研究のデジタライズ」(梅崎透)「第3章 アメリカ史研究文書館案内」(中野聡・橋川健竜)の3章で結ばれた後、付録として年表、地図、索引が付されている。

  以上の構成に関し油井は、第I部は政治史を中心とした時代別構成、第II部は時代別の構成では扱いにくいテーマ別の構成、第III部が資料編の役割を担うと「総説」記している。ただ、それがどのような歴史理解を下敷きにしているのかは明確にしていない。ちなみに、1970年代から80年代に台頭した新しい社会史の流れを踏まえた前出のNew American History (1990)が、同じく、通史編(Eras of the American Past)とテーマ編(Major Themes in the American Experience)の二部構成をとっているから、それにならったというのが私の推測である。アメリカの大学で博士号を取得する若手研究者の数が増加し、学会動向における日米の共振が普通に見られるようになった現在、研究動向の整理においてその構成が類似するのはむしろ自然なことなのかもしれない。それで日本(人)の立場を踏まえたアメリカ史解釈が成立するのかという疑義はもちろん出されよう。しかしその問題には第II部テーマ編の内容を紹介する際にあらためて触れることとして、まずは、私の目に映った第I部通史編に現れた編著者のアメリカ史解釈の特徴を挙げてみたい。 

  「総説」で油井が繰り返し用いる言葉に「相対化」がある。例えば、リーマンショック以後の世界経済は「アメリカ流の「市場原理主義」的な資本主義の在り方に批判の目を向けさせており、アメリカ・モデルの歴史的な相対化が求められている」(4)、「世界経済のなかでアメリカが指導生性を低下させている面もみられるので、アメリカの「覇権」を相対化して考える必要もあるだろう」(4)、「人類学とのあいだでは人種やエスニシティの捉え方をめぐる対比が有益であろう。・・(中略)・・欧米的な人種観念をアジアやアフリカの事例から相対化する試みである」(9)「また、国民国家を相対化する「越境的研究」も重視されるようになり、アメリカ・メキシコ国境にまたがって先住民やメキシコ人などを研究する「ボーダー・スタディーズ」などが注目されている」(12)等々である。

  言うまでもなく、油井がここで言う「相対化」は、アメリカ史研究のグローバル化という問題に一つ繋がっている。20世紀初頭以来のアメリカ史研究の潮流を大雑把に振り返った際に述べた通り、21世紀に入って10年ほどが経過したアメリカ史研究において最も頻繁に議論される問題の一つが、そのグローバル化である。トランスナショナルなアメリカ史の解釈と一般に呼ばれるものがそれにあたる。歴史解釈の文脈を国境を越えた国際的な文脈にひろげ、世界大のヒト・モノ・カネの動きの中にアメリカ史を捉え直すその試みは、一国史を克服する試みとしてAmerican Historical Review他の学術雑誌でも頻りに推奨されてきた。グローバル化の議論は方法論の是非に関しては既に出尽くしており、その成果を議論すべき段階に入ったという指摘すらある。 このアメリカ史研究の新しい潮流への積極的評価が随所に見られる点が本書の特徴、あるいは時代性とまず呼べるだろう。編者の一人である紀平がI部序論で指摘するように(28)、例えば第1章「植民地時代」における和田の議論は、ほぼ全てがその点に集約されている。独立革命に帰結する英領植民地の歴史を政治思想の成熟に重点をおきながらテレオロジカルに綴るのが旧来の植民地史であったとすれば、「国家成立以前の歴史を、その国史の一部としてではなく、国家そのものの枠組みを相対化しつつ研究すること」(29)に新たな植民地時代史の意義を和田は見いだす。そして、アメリカ固有の出来事に目を向けるのでなく、ヨーロッパや他の世界と共通する要素から北米英領植民地の歴史を捉え、「大西洋史」の枠組の中にそれを位置づける必要性を強調する和田は、「アメリカ植民地時代史研究が、再び合衆国のナショナル・ヒストリーの枠内に押し込められることは、もはやないのではなかろうか」(46)とまで言い切る。第II部テーマ編で森本が論じているアメリカ思想史に占めるピューリタニズムの重み(204-208)、あるいはやはり第II部テーマ編で生井が論じているアメリカ大衆文化の中に息づく植民地時代の遺産(228-229)等を考えれば、和田の言葉は少し言い過ぎという印象を筆者は持つ。だが、アメリカ史研究のグローバル化の視点が多くの研究者たちに強い訴求力を有し、質の高い画期的な研究を次々と生みだしている点は認めねばならない。国境を越えた歴史の因果関係を探っているわけではないが、祝祭・儀礼・パレード等を通した民衆の政治参加に19世紀前半のアメリカ政治の成熟を見る第2章における田中の議論(61-65)も、同時代のイギリスやフランスにおける歴史とアメリカ史との共振を意識しているという意味で、アメリカ史研究のグローバル化の流れを表している。思想史におけるグローバル化の流れにも本書の著者たちは敏感に反応している。例えば、大西洋を跨ぐ言説のミュニティーに共有された思想として革新主義を捉えたダニエル・ロジャーズやジェームズ・クロッペンアーグの研究を岡山、中野が高く評価(82、97)している。外交に反映される思想文化の研究にまで議論の範囲をひろげれば、米西戦争時のアメリカ国内における人種観やジェンダー規範への目配りを強調する同じ岡山の指摘(87)や、冷戦の文化史の可能性をあらためて指摘する島田の記述(140-142)、2003年以降の世界における「反米」意識の構造に触れた砂田の記述(147-149)などにも、アメリカ史研究のグローバル化の流れが読み取れる。

  油井が「総説」で繰り返す「相対化」が、もう一つ、時代区分の「相対化」という問題に繋がっている点も忘れるべきではない。そもそも、アメリカ史の解釈を「相対化」するという議論は、一方に「絶対化」あるいは「固定化」されたアメリカ史の解釈が存在したという議論を裏書きする。それでは、「絶対化」あるいは「固定化」されたアメリカ史の解釈とは何か。おそらくそれは、植民地開闢以来、独立革命、南北戦争、第一次・第二次世界大戦、冷戦、そして、冷戦の終焉を経て現在に至るまでの歴史を、アメリカの自由や民主主義の伝統を汲む流れとそこから逸脱する流れとの対抗劇と見るようなナショナル・ヒストリーを指すのであろう。そのようなグランド・ナラティブは、典型的な例として、南北戦争における南部の敗北を、経済・倫理道徳おける「後進地」南部の「先進地」北部への敗北と語り継いできたし、負けた戦争であるはずのベトナム戦争をすら、「祖国」を失った南ベトナムの人々を政治難民として受け入れるアメリカ自由主義の「勝利」の物語とみなす傾向がある。 しかし、本書の著者たちは、アメリカ史を語る際に通念的に受け入れてきたそうした時代の区分を、滲ませ、越境する流れにこそ読者の注意を促す。例えば、英領北米植民地の歴史を「大西洋史」の一貫と捉えた場合、奴隷制度の有無に着目してどこまでその時代区分を引き延ばすべきかを問う和田の既述(45)、人種の歴史を深く理解するために南北戦争史を戦後社会の変容を視野に入れた長期的視野から捉える必要を説く田中の既述(69)など、「植民地時代」「南北戦争の時代」といった今までの時代理解に心地よい揺さぶりをかける。熱狂的だがまとまりを欠く農民の反乱というポピュリズムの理解を「長い革新主義」の一部と捉え直すことで、「金メッキ時代」と「革新主義時代」という時代区分の妥当性を研究者に再考させる岡山の記述(80)など、スリリングですらある。20世紀以降においても、冷戦社会特有の画一性が強調されがちなトルーマン時代の政治が例えばニューディール期との間に有する継続性や、変革の時代とされる60年代と新保守主義の時代とされる80年代との継続性に注意を促す島田の記述(123、134)など、硬直した時代区分を同様される重要な指摘が本書の随所に見いだされるのである。

  歴史の解釈が空間と時間の二つの時間軸のなかで試みられるとすれば、第I部通史編は、その二つの軸にそって近年試みられた越境の成果をバランス良く紹介することに成功している。これからアメリカ史研究を志す学生ばかりでなく、専門の研究者にも既存の研究を様々の角度から考え直す機会をそれらの記述は与えてくれる。その点を高く評価したい。

本書の構成:テーマ編

  アメリカ合衆国の歴史全体をテーマで切り分けるとした場合、どのようなテーマを設定するのが妥当か研究者によって激しく意見が分かれよう。本書のテーマ編について、「時代別の構成では扱いにくいテーマ別の構成」(14)になっていると油井が述べていることは既に紹介してある。これに対し、「現在研究が活発におこなわれているテーマ、近年の研究の特徴をもっともよく現しているテーマ、また重要であるにもかかわらず、これまで無視ないし軽視されてきたテーマという観点から」(164)各テーマを選択したとやはり編者の一人である有賀は述べている。同じ編者の間でも見解に微妙なずれがあるのが読み取れよう。テーマの選択がいかに難しい問題であるかが容易に推察される。第II部の序論を記した有賀の言葉をより重く取るとすれば、「1章 歴史のなかの人種・エスニシティ・階級」と「2章 ジェンダーの視座から見るアメリカ史」が「現在研究が活発におこなわれているテーマ」、「5章 ポピュラーカルチャーの見方と見え方」と「6章 歴史のなかの環境」が「近年の研究の特徴をもっともよく現しているテーマ」、そして、「コミュニティ, 学校と「アメリカ人」の形成」と「軍事思想・制度の歴史的変遷」が従来の日本のアメリカ史研究で「無視ないし軽視されてきたテーマ」ということになるだろうか。他方、「3章 宗教と思想に見るアメリカの自己理解」と「8章 日本にとってのアメリカ」は、有賀は何も明言していないが、以前もそして今後も日本のアメリカ史研究に一つの軸を提供するテーマと考えられ、選択されたと筆者は推測している。その意味で、第3,第8章のテーマ設定に日本におけるアメリカ史研究の伝統を筆者は深読みしている。企画における編者の意図はどうであれ、各章はどれもがアメリカ史研究の新しい方向性を鮮やかに浮かび上がらせており、読み物としても優れたものが多い。その一つ一つの細かな内容に踏み入る余裕は最早ないので、全体を貫く性格について、余す紙幅で考察を加えることとする。

  最初に目に留まったのは「総合」への志向である。通史編の大テーマが「相対化」であるとすれば、テーマ編の大テーマは「総合」であろう。「総説」および第II部「序論」で油井、有賀の両名がまとめているとおり、1980年代、90年代に隆盛を迎えた社会史研究は一方で「些末主義」の批判を浴び続けた(10, 163 )。それを乗り越えるツールとして「公共文化」(public culture)や「政治文化」(political culture)の概念が提唱され、それらを用いた新しいグランド・ナラティヴの可能性が検討されてきたことは周知のとおりである。 関西アメリカ史研究会が「政治文化」を鍵言葉に植民地時代から現代までを扱う論文集を2010年に刊行したのも、アメリカ史像の新しい総合を模索しようという姿勢からであった。 新たな包摂概念によってテーマごとの研究成果をまとめ上げる意図を本書の誰もが明記しているわけではないが、「些末」と批判された社会史研究の成果を総合する視点の提示が、現在までのアメリカ史研究の動向整理に不可欠と誰もが考えていることは間違いない。例えば、人種・エスニシティ・階級の交錯からアメリカ史の新たな総合を試みる貴堂の記述にその最良の例を見いだすことができる。貴堂は、フランス人史家マルク・ブロックの歴史観を引きながら、「こころとからだをもった生の人間」「複合的アイデンティティを引き受けて生きている」個人の視点から歴史を取られ直す必要を指摘し、「社会史研究により積み上げられた成果は、現在、人種、エスニシティ、階級、ジェンダーの差異の政治に基づきシティズンシップの内実が規定されたその国民化の回路を解明し、各社会集団間での協同・折衝・対立に焦点をあてて<アメリカ人>の境界がいかにつくられてきたのかを考察する、国民化 / シティズンシップの社会史として新たな総合を志向している」(174)と言い切っている。その言葉に秘められた熱い思いは読む者の心にも伝わる。新たな総合的アメリカ史像を貴堂が彫り上げるのを待ちたい。このほか、建国から現代までアメリカ人の自己理解に思想・哲学が与えた知的影響を指摘する森本の記述(204、214)、人文社会科学ばかりでなく自然科学の知をも動員した学融合的な視点から環境の歴史を語る必要性を説く小塩の記述(241)など、おそらくは編者の期待以上に、新たな「総合」の視座を各章の執筆者が本書では論じている。通史編においても、組織史学の視点を援用しながら紀平、岡山、中野が、過度に細分化され多義化されたアメリカ史像の総合を示唆していた(18、94,85,96~98,107~108)。この数十年間ミクロな視点からのマクロなアメリカ史像への批判が続いたのに対し、これからしばらくは、マクロな視点からのアメリカ史像の新たな総合が試みられるのかもしれない。そうした予感を本書は筆者に抱かせる。

   アメリカ史像の新たな「総合」は、歴史を描く対抗軸の相対化からも生まれる。馴染みの深い対抗軸を例にとって言えば、白人対黒人、男性対女性、合衆国対日本、自然対人間の対立を強調する従来の歴史の見方を修正する作業にこれはなる。言語論的転回も含めてなされるそれらの修正が生み出す研究の成果に、テーマ編の執筆者たちはたしかに積極的な評価を与えている。これも本書の時代性と呼ぶべき一つの特徴であろう。例えば、「無徴」とされてきた「白人」概念に潜在する政治性を問う「ホワイトネス」研究が人種関係史や労働史に新たな流れを生んでいることがひろく知られる。それを紹介する貴堂の記述(177)は、男性、異性愛主義者、健常者など近代世界を秩序づける他の無徴にも読者の注意を促す。男性の視座を意識して歴史を語る「男性史」の潮流を紹介する安武の記述(192, 195)、「人間がまったく関与しない原生自然と人間による経済開発とを二律背反的にとらえ」る自然観の見直しを求める小塩の記述(251)、はては、戦後日本の占領政策をアメリカ側の一方的な押し付けと見るのではなく、「平和」と「民主主義」の実現に向けた日米協働の成果とみる流れに触れる林の記述(268)にも、既存の対抗軸を解体しより陰影に富んだ豊かな歴史像を模索する姿勢がうかがわれる。既出のAmerican History Now (2011)にはagency の双方向性を重視する、よりnuanceに富んだ研究の潮流が随所で紹介されるが、そうした歴史解釈の流れが本書でも評価されていると言いまとめるが出来る。

  日本におけるアメリカ史研究で従来「無視ないし軽視されてきた」テーマとして「コミュニティ,学校と「コミュニティ」の形成」および「軍事思想・制度の歴史的変遷」を本書テーマ編が取り上げたのではないかという筆者の推測は既に記した。この点については補足しておく必要があるだろう。学校史や教育史に関してはいわゆる教育学系の学界で蓄積が進んでいると推測する。実際、戦前戦後の日本におけるアメリカ社会思想研究でもっとも蓄積の厚い分野が、ジョン・デューイの教育思想に関するものであることは現在のアメリカ史研究者の間ではあまり理解されていない。 「アメリカ教育史は、どの時代の、どの地域の、どの集団の、どの教育階梯を対象とした、どのような教育領域についてのものかという、さまざまの限定要素の組合わせで成立するモノグラフを産出している。しかし、それを集めただけでは「アメリカ教育史」像をむすぶことはできず」、本書のまとめにも自ずと限界があると中村は抑制的に述べている(225)。しかし、教育史とアメリカ史の相互乗り入れがもう少し進むべき現状の是正に本書が資することは間違いない。また、その必要性にもかかわらずほとんど正面から議論されてこなかったテーマに軍事の歴史があることは論を俟たない。もちろんここでいう軍事の歴史とは、軍事思想・制度の背後にある社会組織・倫理・技術・経済・世界観等の総体を扱う歴史を指す。例えば、戦争の是非とは別に戦略に凝縮する各国の価値観を掘り下げて理解しておくことは、地域研究の重要な役割の一つであろう。そうした広い視野に立つ研究が地道な調査のうえに少しずつ日本でも刊行されている。 それらの著作の成果をよりひろいアメリカ史研究の場に接続するうえで本書が一石を投ずる可能性を感じた。

  最後に、本書テーマ編が扱わなかったテーマを一つとりあげておきたい。それは「文化」である。「文化」の定義があまりに多義的であり、かつ広範囲におよぶため、「文化」をテーマに一章をもうけることなど不可能であろうことはおおかた察しがつく。ただ、研究テーマとしての「文化」ではなく研究方法としての「文化」を取り上げることならば出来たかも知れない。この点、アメリカのポピュラーカルチャーの捉え方が英米で異なることを起点にアメリカのポピュラーカルチャーの本質を論じる生井の記述(227-229)が、文化を切り口に研究を起こすことの意義に触れており刺激的である。しかし、政治・経済・思想・外交・ジェンダーほか、ほぼ全ての章が「文化」の側面から歴史を解釈する必要性を指摘しながら、何故他ではなく文化の側面からなのか正面切って論じていないことには不満が残る。この点、American History Now (2011)の第10 章が The “Cultural Turn”というテーマで綴られ、テーマとして文化を選ぶことと方法論として文化を選ぶことの両面から問題を整理しており参考になる。 そのことを記すにここでは留める。

おわりに

  以上、通史編とテーマ編に分けて『アメリカ史研究入門』(2009)の諸特徴に考察を加えてみた。これから研究を志す学生に対する心配りという点で、京都大学で長年アメリカ史研究を牽引してきた紀平と島田の文章が史料紹介を含めとても親切である点など、もう少し論じたくもあった。橋川が纏めた章ごとの文献紹介の使い勝手の良し悪しなど、細かな点を非難することもできる。だが、現時点での日本のアメリカ史研究の到達点を示すとともに、これから研究を志す学生および専門の研究者の両方に資する入門書として、本書が今後一つの基準になることは間違いない。梅崎、中野聡がまとめた史料調査の情報もたいへん役立つ。総勢20名の編著者の労に敬意を表したい。